三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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8月である。8月という月は、なんとなく殺気立っている。暑さのせいか。けさはそれほど暑くもないのだが、それでもやはり殺気立っている。おととい開かれた名張まちなか再生委員会役員会のせいか。
7月31日:役員会から一夜あけた朝に > 役員会報告
かんなくずの親分、相当ご立腹であるという。それはそうであろう。仔細は不明ながら、無駄に立派な公衆便所つきの名張地区第二公民館with小判鮫を知の殿堂に生まれ変わらせるやなせ宿連続講座やなせ塾の第四回、再考するよう役員会から指示があったという。あほなのである。役員会はあほなのである。あほであるがゆえ、世間の人間がみんな自分たちとおなじあほであると信じて疑わぬのである。世間の人間がみんな、ただの思いつきだけで生きていると思いこんでいるのである。はばかりながら、やなせ塾第四回はそこらのあほが思いつきでふらふら口走ったいいかげんな企画なんかではさらさらない。
そもそも、いったい何を再考しろというのか。やなせ宿の、あるいはまちなか再生の関係者がまちなか再生の拠点として誕生したやなせ宿につどい、やなせ宿ないしはまちなか再生の現状と展望について熱く語るという催しである。どこに支障があるのか。どんな不都合があるのか。再考の余地などどこにもないではないか。名張まちなかの住民が、のみならず名張市民が、こぞって賛意を表してくれる催しだと判断される次第なのであるが、役員会のあほのみなさんはこの期におよんで何をごねておるのか。何をむずかっておるのか。何を尻込みしていらっしゃるのか。なーんか負け癖のついた犬みたいじゃね? みたいなこといってたら犬が怒るか。
案ずるに、役員会のみなさん、やなせ塾第四回なんか開きたくない、というのが本音なのであろう。しかし、口が裂けてもそんなことはいえまい。なにしろ名張市は官民の協働とやらでまちなか再生に鋭意取り組んでおり、その拠点となる観光交流施設として一億円をかけて整備されたやなせ宿では市内外からの集客が着々と進んでおります、ということになっているのである。実際には全然そんなことないのだけれど、いちおうまあ、そういうことになっているのである。したがって、いままでどおりそんなきれいごとを並べてその場しのぎを決めこみたいというのであれば、名張まちなか再生委員会の首脳部も、それ以外の参加者も、やなせ塾第四回にはとても顔なんか出せぬであろう。
だから、もうきれいごとなんか必要ない、といっているのである。いくらうわっつらをとりつくろってみても、まちなか再生なんていつまでも足踏み状態のままだし、やなせ宿の整備は完全な失敗に終わってしまった。そうした事実は、もはや隠しようがないのである。こうなったら正直にそれを認め、やなせ宿のことにひとまずけりをつけて、そうすることできれいごとの重圧から解放されたうえで、やなせ宿やまちなか再生のことをそれぞれに考えてみてくれんかね、というのがやなせ塾第四回の趣旨なのである。以前にも記したとおり、関係者を糾弾したり弾劾したりするつもりはない。参加者との質疑応答さえないのである。ただまっすぐに、やなせ宿あるいはまちなか再生というテーマに真摯に正対していただくだけでいい。
そういった場として、名張まちなか再生委員会歴史拠点整備プロジェクトは、あのやなせ塾第四回を企画したのである。再考の余地がどこにあるというのか。再考のなんのとかっこつけておるようだが、これこれ役員会のみなさんや、どうせ四の五のいって話をうやむやにし、なかったことにしてしまいたいというのが正直なところなのであろう。しかし、そうは問屋が卸さんと思うぞ。だいたい、いつまでもかっこつけてしゃっちょこばり、市民から白い眼でみられつづけるのもつらいことなのではないのかな。早く楽になったほうがいいと思うぞ。
さて、かんなくずの親分の意向は知るよしもないが、役員会による再考の指示など、歴史拠点整備プロジェクトとしては、とても受諾できるものではない。ばーか、といって蹴っ飛ばしてやるのが筋であろう。しかし、ここでつっぱねてしまっては、話が前に進まなくなる。だから役員会にたいし、あるいは、委員会事務局にたいし、再考すべき点を具体的に示した文書の提出を要求すべきである。なにしろ7月31日付コメント「役員会報告」によれば、再考の件にかんしては、あろうことかあるまいことか、名張まちなか再生委員会の委員長が「いちいち覚えてない」とおっしゃっているそうなのである。そんなあいまいな話、呑める道理がないではないか。
役員会が歴史拠点整備プロジェクトに再考を迫るのであれば、再考すべき点を明瞭に示し、その再考を受けた役員会をいつ開くのか、それを明らかにするのが筋というものであろう。そうしてもらわなければ、再考なんてできるはずがない。ほんとは再考なんかしなくていい、とにかくやなせ塾第四回の話をうやむやにしてしまえればそれでいい、というのが役員会のいつわらざる心の声であるのだとしても、再考しろというのならそれなりのことをしろ。それなりのことをして話をもってこい。もしもそれができぬというのであれば、さあ、いったいどんなふうに暴れてやればいいのかな。なんかもう、さっきから殺気立ってきて殺気立ってきてしかたないんだけど。
7月31日:役員会から一夜あけた朝に > 役員会報告
かんなくずの親分、相当ご立腹であるという。それはそうであろう。仔細は不明ながら、無駄に立派な公衆便所つきの名張地区第二公民館with小判鮫を知の殿堂に生まれ変わらせるやなせ宿連続講座やなせ塾の第四回、再考するよう役員会から指示があったという。あほなのである。役員会はあほなのである。あほであるがゆえ、世間の人間がみんな自分たちとおなじあほであると信じて疑わぬのである。世間の人間がみんな、ただの思いつきだけで生きていると思いこんでいるのである。はばかりながら、やなせ塾第四回はそこらのあほが思いつきでふらふら口走ったいいかげんな企画なんかではさらさらない。
そもそも、いったい何を再考しろというのか。やなせ宿の、あるいはまちなか再生の関係者がまちなか再生の拠点として誕生したやなせ宿につどい、やなせ宿ないしはまちなか再生の現状と展望について熱く語るという催しである。どこに支障があるのか。どんな不都合があるのか。再考の余地などどこにもないではないか。名張まちなかの住民が、のみならず名張市民が、こぞって賛意を表してくれる催しだと判断される次第なのであるが、役員会のあほのみなさんはこの期におよんで何をごねておるのか。何をむずかっておるのか。何を尻込みしていらっしゃるのか。なーんか負け癖のついた犬みたいじゃね? みたいなこといってたら犬が怒るか。
案ずるに、役員会のみなさん、やなせ塾第四回なんか開きたくない、というのが本音なのであろう。しかし、口が裂けてもそんなことはいえまい。なにしろ名張市は官民の協働とやらでまちなか再生に鋭意取り組んでおり、その拠点となる観光交流施設として一億円をかけて整備されたやなせ宿では市内外からの集客が着々と進んでおります、ということになっているのである。実際には全然そんなことないのだけれど、いちおうまあ、そういうことになっているのである。したがって、いままでどおりそんなきれいごとを並べてその場しのぎを決めこみたいというのであれば、名張まちなか再生委員会の首脳部も、それ以外の参加者も、やなせ塾第四回にはとても顔なんか出せぬであろう。
だから、もうきれいごとなんか必要ない、といっているのである。いくらうわっつらをとりつくろってみても、まちなか再生なんていつまでも足踏み状態のままだし、やなせ宿の整備は完全な失敗に終わってしまった。そうした事実は、もはや隠しようがないのである。こうなったら正直にそれを認め、やなせ宿のことにひとまずけりをつけて、そうすることできれいごとの重圧から解放されたうえで、やなせ宿やまちなか再生のことをそれぞれに考えてみてくれんかね、というのがやなせ塾第四回の趣旨なのである。以前にも記したとおり、関係者を糾弾したり弾劾したりするつもりはない。参加者との質疑応答さえないのである。ただまっすぐに、やなせ宿あるいはまちなか再生というテーマに真摯に正対していただくだけでいい。
そういった場として、名張まちなか再生委員会歴史拠点整備プロジェクトは、あのやなせ塾第四回を企画したのである。再考の余地がどこにあるというのか。再考のなんのとかっこつけておるようだが、これこれ役員会のみなさんや、どうせ四の五のいって話をうやむやにし、なかったことにしてしまいたいというのが正直なところなのであろう。しかし、そうは問屋が卸さんと思うぞ。だいたい、いつまでもかっこつけてしゃっちょこばり、市民から白い眼でみられつづけるのもつらいことなのではないのかな。早く楽になったほうがいいと思うぞ。
さて、かんなくずの親分の意向は知るよしもないが、役員会による再考の指示など、歴史拠点整備プロジェクトとしては、とても受諾できるものではない。ばーか、といって蹴っ飛ばしてやるのが筋であろう。しかし、ここでつっぱねてしまっては、話が前に進まなくなる。だから役員会にたいし、あるいは、委員会事務局にたいし、再考すべき点を具体的に示した文書の提出を要求すべきである。なにしろ7月31日付コメント「役員会報告」によれば、再考の件にかんしては、あろうことかあるまいことか、名張まちなか再生委員会の委員長が「いちいち覚えてない」とおっしゃっているそうなのである。そんなあいまいな話、呑める道理がないではないか。
役員会が歴史拠点整備プロジェクトに再考を迫るのであれば、再考すべき点を明瞭に示し、その再考を受けた役員会をいつ開くのか、それを明らかにするのが筋というものであろう。そうしてもらわなければ、再考なんてできるはずがない。ほんとは再考なんかしなくていい、とにかくやなせ塾第四回の話をうやむやにしてしまえればそれでいい、というのが役員会のいつわらざる心の声であるのだとしても、再考しろというのならそれなりのことをしろ。それなりのことをして話をもってこい。もしもそれができぬというのであれば、さあ、いったいどんなふうに暴れてやればいいのかな。なんかもう、さっきから殺気立ってきて殺気立ってきてしかたないんだけど。
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