三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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さて、これである。
ばかかこら名張まちなか再生委員会、といったレベルの話では、もはやなくなっている。なぜか。案内板の下のほうに「名張市・名張市教育委員会」と明記されているからである。案内板製作の実務を担当したのが名張まちなか再生委員会の歩行者空間整備プロジェクトであったとしても、そんなことにはかかわりなく、この案内板は名張市と名張市教育委員会が設置したものであります、この案内板の責任はすべて両者が負っております、という意味を示したクレジットである。だから、ばかかこら名張まちなか再生委員会、ではなくて、ばかかこら名張市ならびに名張市教育委員会、と啖呵を切らなければならない。なんか語呂が悪いけどなあ。
語呂が悪くてもいたしかたあるまい。それにだいたいこの両者、名張市ならびに名張市教育委員会は、この案内板とはまったく無関係に、いずれぼこぼこにしてやらねばならぬ相手なのである。いやいや、ぼこぼこにしてやるなどというのはいかにも剣呑である。誤解が生じよう。名張市立図書館とはきっぱり無縁の身となったそのうえで、さあみなさん乱歩をいったいどうするおつもり? とお訊きし、市民のひとりとして提案すべきことは提案して、手を携えながらいわゆるいい方向ってやつを模索したいと考えているそのお相手が、ほかならぬこの名張市ならびに名張市教育委員会なのである。当方が図書館に身を置いている人間であれば、たとえばかつての教育長やまたかつての教育次長のように、こちらの質問や提案を完全に黙殺しつづけることが可能かもしれない。いや、げんに黙殺しつづけやがったのである。だから図書館とおさらばしたのである。お役所のヒエラルキーから自由になった市民のことを、はたして無視することができるのかな。
名張市公式サイト:名張市 市長への手紙
たいして意味はない。ちょっとリンクしてみたかっただけである。
それでは、案内板デザイン講座初級篇、元気にはじめたい。内容としては、去年の秋、名張市役所一階大会議室で名張まちなか再生委員会事務局から案内板の図案を示されたとき、アドバイスというのではまったくなく、なんなんだこのひどい出来は、と並べ立てた悪口雑言とほぼおなじことになる。悪口雑言から有益なアドバイスを汲みとることができるかどうか、それはこちらの問題ではない。
まず、写真である。案内板には、それこそ手近なところから切り抜いてきたような写真がぺたぺたと貼られている。これではまずかろう。いくらなんでもまずかろう。手抜きもここに極まれり、といった印象を与える。では、どうすればいいのか。どう考えればいいのか。こうした場合の考えかたについて考えてみたい。
これはそもそも、何を案内するための案内板か。江戸川乱歩生誕地碑広場である。つまり、乱歩はこの場所で誕生したのである。ということは、ここには何があったのか。いわずと知れた家である。乱歩の家があったのである。すなわち、乱歩一家の生活があったのである。裏通りの小さな借家で、乱歩一家が生活していたのである。
草深い土地でかりそめの郡役所勤務に甘んじながら、胸中には時代の子らしい野心を燃えたたせている若い父親がいた。名を繁男という。その繁男のもとに、見合写真を交わしただけで実際には一度の対面もはたさぬまま、津からはるばる峠を越えて嫁いできた若い母親がいた。名をきくという。そして、母ひとり子ひとりの境涯となって繁男だけを頼りとし、繁男夫婦に恵まれた初の子宝である乱歩をこよなく可愛がる祖母がいた。名を和佐という。そして乱歩は、むろんまだ乱歩ではなく、お父さんは小柄な人なのにずいぶん大きな子ができた、と近所で評判になった赤ん坊であった。名を太郎という。一家の姓は平井という。
この四人の家族による生活が、かつてこの地で営まれていたのである。この土地には、ごく短い期間ではあるけれど、この家族四人の歴史が、喜怒哀楽が、ありきたりだがかけがえのない日常が、たしかに刻まれていたのである。だとすれば、どんな写真が必要か。いうまでもない。家族の写真である。いわゆる家族の肖像である。家族の肖像っつったらヴィスコンティだぞこら。山猫である。地獄に堕ちた勇者どもである。ルートヴィヒである。ベニスに死すである。ベニスまで行けとはいわないけれど、とんこ山あたりでいっぺん死んでこいこら低能。ちっとはおつむがよくなるかもしれんぞ。
とはいえ、赤ん坊だった乱歩を囲んで名張で撮影された写真なんてのは、残念ながら存在しない。河出書房新社の『江戸川乱歩アルバム』には、お母さんに抱かれた太郎ちゃんの写真が収録されていて、撮影は明治29・1896年、場所は亀山、これがもっとも古い乱歩の写真であるという。それならそれでかまわない。とにかくご遺族にお願いして、家族四人が写った写真を拝借し、それを案内板に使用することも、一案として考えてみるべきだろう。
むろん一案でしかない。じっくり考えればまだアイデアは出てくるだろう。出るだけのアイデアを並べたあと、どれが最善のアイデアかを判断し、それを練りあげてゆくのがふつうのやりかたである。こうした場合の考えかたというものである。ところがこの案内板には、そうしたプロセスがいっさいなかったようである。考えるとか、練りあげるとか、そういった過程はみごとになかったようである。手近なものを切り抜いて貼り合わせ、それでいっちょあがりというだけのしろものである。
だから幼稚園児の切り貼り遊びだといわれる。
中学生がつくった壁新聞にも劣るといわれる。
中学生がつくった壁新聞なら、もう少し深く対象にアプローチできているはずである。乱歩という対象について何も知ろうとせず、調べようともせず、ありあわせの素材を切り貼りするだけでことをすませるなどというペテンみたいな真似がこら、よくもできたものだな名張まちなか再生委員会。ばかかこら低能。うすらばかが税金の具体的なつかいみちいちいち決めてんじゃねーぞたこ。
だから、教えてやろうといったのである。名張まちなか再生委員会が発足した直後、委員会の事務局に足を運んで、うすらばかが何十人と集まってもろくなことにはならないから、せめて最低限の知識だけは教えてやろうと申し出たのである。あの時点で人の好意を素直に受け容れていさえすれば、まかりまちがってもこんな出来の悪い案内板は誕生していなかったはずである。ばかってのはまったくどうしようもないものである。
ま、いまさら何をいっても手遅れである。手遅れではあるがいってやる。もうぼこぼこに叩いてやる。つづきはあすとなるのである。
ばかかこら名張まちなか再生委員会、といったレベルの話では、もはやなくなっている。なぜか。案内板の下のほうに「名張市・名張市教育委員会」と明記されているからである。案内板製作の実務を担当したのが名張まちなか再生委員会の歩行者空間整備プロジェクトであったとしても、そんなことにはかかわりなく、この案内板は名張市と名張市教育委員会が設置したものであります、この案内板の責任はすべて両者が負っております、という意味を示したクレジットである。だから、ばかかこら名張まちなか再生委員会、ではなくて、ばかかこら名張市ならびに名張市教育委員会、と啖呵を切らなければならない。なんか語呂が悪いけどなあ。
語呂が悪くてもいたしかたあるまい。それにだいたいこの両者、名張市ならびに名張市教育委員会は、この案内板とはまったく無関係に、いずれぼこぼこにしてやらねばならぬ相手なのである。いやいや、ぼこぼこにしてやるなどというのはいかにも剣呑である。誤解が生じよう。名張市立図書館とはきっぱり無縁の身となったそのうえで、さあみなさん乱歩をいったいどうするおつもり? とお訊きし、市民のひとりとして提案すべきことは提案して、手を携えながらいわゆるいい方向ってやつを模索したいと考えているそのお相手が、ほかならぬこの名張市ならびに名張市教育委員会なのである。当方が図書館に身を置いている人間であれば、たとえばかつての教育長やまたかつての教育次長のように、こちらの質問や提案を完全に黙殺しつづけることが可能かもしれない。いや、げんに黙殺しつづけやがったのである。だから図書館とおさらばしたのである。お役所のヒエラルキーから自由になった市民のことを、はたして無視することができるのかな。
名張市公式サイト:名張市 市長への手紙
たいして意味はない。ちょっとリンクしてみたかっただけである。
それでは、案内板デザイン講座初級篇、元気にはじめたい。内容としては、去年の秋、名張市役所一階大会議室で名張まちなか再生委員会事務局から案内板の図案を示されたとき、アドバイスというのではまったくなく、なんなんだこのひどい出来は、と並べ立てた悪口雑言とほぼおなじことになる。悪口雑言から有益なアドバイスを汲みとることができるかどうか、それはこちらの問題ではない。
まず、写真である。案内板には、それこそ手近なところから切り抜いてきたような写真がぺたぺたと貼られている。これではまずかろう。いくらなんでもまずかろう。手抜きもここに極まれり、といった印象を与える。では、どうすればいいのか。どう考えればいいのか。こうした場合の考えかたについて考えてみたい。
これはそもそも、何を案内するための案内板か。江戸川乱歩生誕地碑広場である。つまり、乱歩はこの場所で誕生したのである。ということは、ここには何があったのか。いわずと知れた家である。乱歩の家があったのである。すなわち、乱歩一家の生活があったのである。裏通りの小さな借家で、乱歩一家が生活していたのである。
草深い土地でかりそめの郡役所勤務に甘んじながら、胸中には時代の子らしい野心を燃えたたせている若い父親がいた。名を繁男という。その繁男のもとに、見合写真を交わしただけで実際には一度の対面もはたさぬまま、津からはるばる峠を越えて嫁いできた若い母親がいた。名をきくという。そして、母ひとり子ひとりの境涯となって繁男だけを頼りとし、繁男夫婦に恵まれた初の子宝である乱歩をこよなく可愛がる祖母がいた。名を和佐という。そして乱歩は、むろんまだ乱歩ではなく、お父さんは小柄な人なのにずいぶん大きな子ができた、と近所で評判になった赤ん坊であった。名を太郎という。一家の姓は平井という。
この四人の家族による生活が、かつてこの地で営まれていたのである。この土地には、ごく短い期間ではあるけれど、この家族四人の歴史が、喜怒哀楽が、ありきたりだがかけがえのない日常が、たしかに刻まれていたのである。だとすれば、どんな写真が必要か。いうまでもない。家族の写真である。いわゆる家族の肖像である。家族の肖像っつったらヴィスコンティだぞこら。山猫である。地獄に堕ちた勇者どもである。ルートヴィヒである。ベニスに死すである。ベニスまで行けとはいわないけれど、とんこ山あたりでいっぺん死んでこいこら低能。ちっとはおつむがよくなるかもしれんぞ。
とはいえ、赤ん坊だった乱歩を囲んで名張で撮影された写真なんてのは、残念ながら存在しない。河出書房新社の『江戸川乱歩アルバム』には、お母さんに抱かれた太郎ちゃんの写真が収録されていて、撮影は明治29・1896年、場所は亀山、これがもっとも古い乱歩の写真であるという。それならそれでかまわない。とにかくご遺族にお願いして、家族四人が写った写真を拝借し、それを案内板に使用することも、一案として考えてみるべきだろう。
むろん一案でしかない。じっくり考えればまだアイデアは出てくるだろう。出るだけのアイデアを並べたあと、どれが最善のアイデアかを判断し、それを練りあげてゆくのがふつうのやりかたである。こうした場合の考えかたというものである。ところがこの案内板には、そうしたプロセスがいっさいなかったようである。考えるとか、練りあげるとか、そういった過程はみごとになかったようである。手近なものを切り抜いて貼り合わせ、それでいっちょあがりというだけのしろものである。
だから幼稚園児の切り貼り遊びだといわれる。
中学生がつくった壁新聞にも劣るといわれる。
中学生がつくった壁新聞なら、もう少し深く対象にアプローチできているはずである。乱歩という対象について何も知ろうとせず、調べようともせず、ありあわせの素材を切り貼りするだけでことをすませるなどというペテンみたいな真似がこら、よくもできたものだな名張まちなか再生委員会。ばかかこら低能。うすらばかが税金の具体的なつかいみちいちいち決めてんじゃねーぞたこ。
だから、教えてやろうといったのである。名張まちなか再生委員会が発足した直後、委員会の事務局に足を運んで、うすらばかが何十人と集まってもろくなことにはならないから、せめて最低限の知識だけは教えてやろうと申し出たのである。あの時点で人の好意を素直に受け容れていさえすれば、まかりまちがってもこんな出来の悪い案内板は誕生していなかったはずである。ばかってのはまったくどうしようもないものである。
ま、いまさら何をいっても手遅れである。手遅れではあるがいってやる。もうぼこぼこに叩いてやる。つづきはあすとなるのである。
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