三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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まずこれ。きのうの中日新聞から。
中日新聞:名匠・田中徳三監督しのぶ 名張の有志が送る会
おととい、2月16日の夜のことである。名張産業振興センターアスピアで「田中徳三監督を名張で送る会」が開かれた。参加してきた。受付を済ませてホールに入ると、円卓が並んでいる。席は指定されている。Bのテーブルだといわれて行ってみると、偉いかたがたの席である。名張市の市長がいらっしゃる。市議会議長がいらっしゃる。なんとも窮屈そうではあるのだが、となりの席に美人がおすわりだったので、ラッキーとか思いながら着席した。それでも、煙草が吸いたくなって外に出たりなんやかんや落ち着かない。となりの美人とは「田中徳三監督 河内音頭取り物語」の話などをした。
開会。黙禱。弔辞。そのあとビール。2月2日に関西学院大学で催された「田中徳三監督とのお別れ会」は、開会からお酒になるまでの時間がずいぶん長かった記憶があるが、名張の会でははやばやとビールが飲めた。ありがたいことである。しかしいつまでもビールを飲んでいるわけにはいかない。酒はないのか酒は。見まわすと、セルフサービスの焼酎があった。いいちこである。四号瓶である。水割りを飲む。
主催者側から、会の途中で挨拶するように頼まれていた。こういうのは困る。偉そうなことをいえるような人間ではない。しかし断ってしまうのも傲慢な話である。とはいえやっぱり恥ずかしい。とりあえず酔っ払ってしまおう。いいちこをセルフサービスでお代わりする。会が終わってから、「うしろから見てましたけど、中さん十杯は飲んでましたね」とお代わりの回数を教えてくれた人があった。何杯飲んだのかはわからないが、とにかく立ったりすわったり、せわしなくというよりはあさましく焼酎を飲んでいたことはたしかだから、ほかの出席者にはずいぶん迷惑なことであったにちがいない。
挨拶では、酔っぱらって田中監督にいろいろ失礼なことを申しあげた思い出、みたいなことを話すつもりだったのだが、とても間がもたないとも思われたので、人のふんどしで相撲を取ることにした。学習研究社から出ていた「伝奇M」という雑誌の2002年7月号、「マニアも唸る! 伝奇映画ベスト41+原作」という企画があって、そこに田中監督の「鯨神」が選ばれていた。田中さんからは、「鯨神」がもっともお気に入りの自作である、とこっそり教えていただいたことがある。
その記事のコピーを朗読した。宇能鴻一郎の原作に言及された部分は割愛した。しかし、いかんいかん、酔った勢いでばかなことを口走ってしまった。宇能鴻一郎という作家を簡単に紹介しておこうと思って、可愛い女子大生とか色っぽい新妻なんかが一人称であたし、感じちゃったんですみたいなことゆうポルノ小説を書いて一世を風靡したのが宇能鴻一郎です、などと不謹慎なことをいってしまった。もっとお酒が入っていたら、明治時代に二葉亭四迷が提唱した言文一致体を真に完成させたのが宇能鴻一郎です、などと意味不明なことをさえずっていたかもしれない。
一部を引用しておく。執筆は八本正幸さん。
八本さんは首都圏にお住まいの方だが、江戸川乱歩の関係でお近づきをいただいて、あれはいつのことであったか、愛知県蟹江町にある怪しの居酒屋、昭和食堂でお酒をごいっしょして以来、もうずいぶんとご無沙汰なのだが、八本さんの手で伝奇映画のベストに「鯨神」が選出されていたことが嬉しく、「伝奇M」をもう一冊買い求めて田中さんにお送りした。折り返し、田中さんからお礼のはがきが届いた。そのはがきはいま、八本さんのもとにある。そんなこともしゃべったのだが、なんだかもうしどろもどろであった。こういう挨拶などにはそもそも向いていないのである。
挨拶をなんとか終えて、いいちこをお代わりしにいくと、瓶はすでに空である。人の酒を勝手に飲みやがって。会場のスタッフに尋ねると、新しいボトルは用意していないという。くっそーっ、酒くらい好きなだけ飲ませろ、とは思ったが、幹事を呼べ幹事を、とまでは思わない。おとなになったあかしである。しばらくして会はお開き。時刻は午後9時を過ぎている。二次会である。参加者を募ったところ総勢五人。うちおふたりは大阪からの出席者で、おひとりは名張に宿泊、もうおひとりは大阪までお帰りになる予定だったのを名張泊まりに変更。アスピアから榊町の番じゃ屋敷まで、徒歩で移動した。
暗い。名張のまちはまっ暗である。ジャスコ前を通過して元町から榊町に入っても、ただただ暗い。それはまあいい。いつものことである。しかし番じゃ屋敷もまっ暗だったから困ってしまった。店が休みなのである。まいった。ほんとうにまいった。ほかにはめぼしい店がない。とくに大阪からわざわざ来てくださった遠来の客人に、こんなことではおおきに礼を失してしまう。よし、こうなったら、これも不幸な宿命だとあきらめてもらうしかないなと意を決し、近くの民家の玄関に押し入って、こんばんは、突然ですがちょっとお酒を飲ませてもらえませんか、と頼んでみた。OKが出た。
むろん知人の家である。いくら酔っぱらいでも、見ず知らずの家に押し入るような真似はしない。遠慮なくあがりこんだところ、残り四人は茫然としている。当然である。なにしろ夜である。見知らぬ家である。あがれといわれても尻込みするのがあたりまえである。それが良識ある態度というものである。しかし、いやいや、まあまあ、ええからええから、汚くしておりますがどうぞおあがりください、と無理やり招じ入れた。手みやげは菓子である。ついさっき、「田中徳三監督を名張で送る会」で出席者に手渡された菓子である。右から左に受け流したのである。
総勢五人、座敷に陣取っていると、日本酒が出る。濁り酒が出る。なんだかわけがわからなくなってくる。大騒ぎである。無茶苦茶である。わあわあいってるところへ田中監督のご令息までやってきてくださって、半狂乱の時間を過ごしたあと、やがて全員ご帰還である。なかには知人宅の当主にむかい、人差し指でこちらを指さしながら、これもつれてかえってほうがよろしやろ、と尋ねたりしている人もいる。しかしまだ帰りたくない。もう少し飲みたい。居残りを決めこんで二次会仲間とはお別れし、もうべろんべろんのぐでんぐでんである。
さて翌日、つまりきのうのことであるが、凍死することなく無事に帰宅したかと知人宅から確認の電話が入ったり、二日酔いでぼーっとしているところに来客があって昼食にでかけたり、来客が帰ったあとは本町の大和屋に足を運んで羊羹を購入し、それを手みやげに不幸な宿命に見舞われた知人宅へ詫びを入れにいったり、あるいは前夜の反省文を四百字詰め原稿用紙三枚以内にまとめようかとも思ったのだがよく考えてみると反省なんかあまりしていないみたいだからこのプランは却下し、とにかくなんだかたいへんであった。
しかし、しかしほんとうはこんなことではいかんのではないか。
中日新聞:名匠・田中徳三監督しのぶ 名張の有志が送る会
おととい、2月16日の夜のことである。名張産業振興センターアスピアで「田中徳三監督を名張で送る会」が開かれた。参加してきた。受付を済ませてホールに入ると、円卓が並んでいる。席は指定されている。Bのテーブルだといわれて行ってみると、偉いかたがたの席である。名張市の市長がいらっしゃる。市議会議長がいらっしゃる。なんとも窮屈そうではあるのだが、となりの席に美人がおすわりだったので、ラッキーとか思いながら着席した。それでも、煙草が吸いたくなって外に出たりなんやかんや落ち着かない。となりの美人とは「田中徳三監督 河内音頭取り物語」の話などをした。
開会。黙禱。弔辞。そのあとビール。2月2日に関西学院大学で催された「田中徳三監督とのお別れ会」は、開会からお酒になるまでの時間がずいぶん長かった記憶があるが、名張の会でははやばやとビールが飲めた。ありがたいことである。しかしいつまでもビールを飲んでいるわけにはいかない。酒はないのか酒は。見まわすと、セルフサービスの焼酎があった。いいちこである。四号瓶である。水割りを飲む。
主催者側から、会の途中で挨拶するように頼まれていた。こういうのは困る。偉そうなことをいえるような人間ではない。しかし断ってしまうのも傲慢な話である。とはいえやっぱり恥ずかしい。とりあえず酔っ払ってしまおう。いいちこをセルフサービスでお代わりする。会が終わってから、「うしろから見てましたけど、中さん十杯は飲んでましたね」とお代わりの回数を教えてくれた人があった。何杯飲んだのかはわからないが、とにかく立ったりすわったり、せわしなくというよりはあさましく焼酎を飲んでいたことはたしかだから、ほかの出席者にはずいぶん迷惑なことであったにちがいない。
挨拶では、酔っぱらって田中監督にいろいろ失礼なことを申しあげた思い出、みたいなことを話すつもりだったのだが、とても間がもたないとも思われたので、人のふんどしで相撲を取ることにした。学習研究社から出ていた「伝奇M」という雑誌の2002年7月号、「マニアも唸る! 伝奇映画ベスト41+原作」という企画があって、そこに田中監督の「鯨神」が選ばれていた。田中さんからは、「鯨神」がもっともお気に入りの自作である、とこっそり教えていただいたことがある。
その記事のコピーを朗読した。宇能鴻一郎の原作に言及された部分は割愛した。しかし、いかんいかん、酔った勢いでばかなことを口走ってしまった。宇能鴻一郎という作家を簡単に紹介しておこうと思って、可愛い女子大生とか色っぽい新妻なんかが一人称であたし、感じちゃったんですみたいなことゆうポルノ小説を書いて一世を風靡したのが宇能鴻一郎です、などと不謹慎なことをいってしまった。もっとお酒が入っていたら、明治時代に二葉亭四迷が提唱した言文一致体を真に完成させたのが宇能鴻一郎です、などと意味不明なことをさえずっていたかもしれない。
一部を引用しておく。執筆は八本正幸さん。
『鯨神』
(一九六二年大映、監督・田中徳三) 原作・宇能鴻一郎【鯨神】 □日本版『白鯨』と言ってしまっては身も蓋もないが、明治初期の九州の漁村を舞台に、海に生きる人々と、巨大な鯨との死闘を濃厚な空気感で描いた傑作。『ゴジラ』で有名な(と言うと語弊があるけど)伊福部昭の音楽も重厚な響きがあり、作品に土俗的な深みを与えている。 □これは文字通り神を殺す物語である。 □そして、神を殺した者が、自ら神となって海へと還って行くのだ。 □神を殺すために、村中が集団狂気に陥って行くような異様な迫力の中で、父も兄弟も鯨神に殺され、復讐に燃える漁師シャキを演じる本郷功次郎、アナーキーなまでの生命力を漲らせた流れ者・紀州を演じる勝新太郎の演技を越えた存在感が圧倒的である。 □ 日本の風土と神話的な物語ががっぷり四つに組んだ、とにかく、濃い映画だ。 □鯨神との死闘の場面は、実物大の頭部とサイズの違う数種類のミニチュアを使い分け、実際の海とプールを使った場面とが入り乱れるかたちで描かれ、今観ても迫力のあるシーンに仕上がっている。いかにもハリボテな鯨神の造型が、ちょっと苦しいけど、ね。 |
八本さんは首都圏にお住まいの方だが、江戸川乱歩の関係でお近づきをいただいて、あれはいつのことであったか、愛知県蟹江町にある怪しの居酒屋、昭和食堂でお酒をごいっしょして以来、もうずいぶんとご無沙汰なのだが、八本さんの手で伝奇映画のベストに「鯨神」が選出されていたことが嬉しく、「伝奇M」をもう一冊買い求めて田中さんにお送りした。折り返し、田中さんからお礼のはがきが届いた。そのはがきはいま、八本さんのもとにある。そんなこともしゃべったのだが、なんだかもうしどろもどろであった。こういう挨拶などにはそもそも向いていないのである。
挨拶をなんとか終えて、いいちこをお代わりしにいくと、瓶はすでに空である。人の酒を勝手に飲みやがって。会場のスタッフに尋ねると、新しいボトルは用意していないという。くっそーっ、酒くらい好きなだけ飲ませろ、とは思ったが、幹事を呼べ幹事を、とまでは思わない。おとなになったあかしである。しばらくして会はお開き。時刻は午後9時を過ぎている。二次会である。参加者を募ったところ総勢五人。うちおふたりは大阪からの出席者で、おひとりは名張に宿泊、もうおひとりは大阪までお帰りになる予定だったのを名張泊まりに変更。アスピアから榊町の番じゃ屋敷まで、徒歩で移動した。
暗い。名張のまちはまっ暗である。ジャスコ前を通過して元町から榊町に入っても、ただただ暗い。それはまあいい。いつものことである。しかし番じゃ屋敷もまっ暗だったから困ってしまった。店が休みなのである。まいった。ほんとうにまいった。ほかにはめぼしい店がない。とくに大阪からわざわざ来てくださった遠来の客人に、こんなことではおおきに礼を失してしまう。よし、こうなったら、これも不幸な宿命だとあきらめてもらうしかないなと意を決し、近くの民家の玄関に押し入って、こんばんは、突然ですがちょっとお酒を飲ませてもらえませんか、と頼んでみた。OKが出た。
むろん知人の家である。いくら酔っぱらいでも、見ず知らずの家に押し入るような真似はしない。遠慮なくあがりこんだところ、残り四人は茫然としている。当然である。なにしろ夜である。見知らぬ家である。あがれといわれても尻込みするのがあたりまえである。それが良識ある態度というものである。しかし、いやいや、まあまあ、ええからええから、汚くしておりますがどうぞおあがりください、と無理やり招じ入れた。手みやげは菓子である。ついさっき、「田中徳三監督を名張で送る会」で出席者に手渡された菓子である。右から左に受け流したのである。
総勢五人、座敷に陣取っていると、日本酒が出る。濁り酒が出る。なんだかわけがわからなくなってくる。大騒ぎである。無茶苦茶である。わあわあいってるところへ田中監督のご令息までやってきてくださって、半狂乱の時間を過ごしたあと、やがて全員ご帰還である。なかには知人宅の当主にむかい、人差し指でこちらを指さしながら、これもつれてかえってほうがよろしやろ、と尋ねたりしている人もいる。しかしまだ帰りたくない。もう少し飲みたい。居残りを決めこんで二次会仲間とはお別れし、もうべろんべろんのぐでんぐでんである。
さて翌日、つまりきのうのことであるが、凍死することなく無事に帰宅したかと知人宅から確認の電話が入ったり、二日酔いでぼーっとしているところに来客があって昼食にでかけたり、来客が帰ったあとは本町の大和屋に足を運んで羊羹を購入し、それを手みやげに不幸な宿命に見舞われた知人宅へ詫びを入れにいったり、あるいは前夜の反省文を四百字詰め原稿用紙三枚以内にまとめようかとも思ったのだがよく考えてみると反省なんかあまりしていないみたいだからこのプランは却下し、とにかくなんだかたいへんであった。
しかし、しかしほんとうはこんなことではいかんのではないか。
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