三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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ぼーっとしてるあいだに、9月もなかばである。
じんわり疲れておる。
夏の疲れが出ておるのか。
そのせいというわけでもあるまいが、その後、これといった進展はない。
なんの進展か。
名張市役所のみなさんに乱歩のことを考えていただいている、その進展である。
だから、地域雑誌「伊賀百筆」に寄稿する漫才も、ほったらかしである。
締切は9月初旬と聞いていたのだが、催促がないのをいいことに、筆をストップさせたままである。
先日も記したとおり、いまだ不確定要素が多いせいで、名張市における乱歩まわりのあれこれを漫才に仕立てることができない。
名張市役所のみなさんに、ちゃんと考えてちゃんと決める、ということをやっていただかないことには、漫才ひとつ書けぬありさま。
ことほどさように、ちゃんと考えてちゃんと決める、というごくふつうのことが、お役所においてはかなりの難事であるらしい。
乱歩まわりのことにかぎらず、名張市政の少なからぬ局面で、ちゃんと考えてちゃんと決める、ということができておらんのではないか、という気にもなってくる。
名張市政といえば、2ちゃんねるの名張市政スレ、例の電波会計士に荒らされてまたまたご臨終、ということになるらしい。
それにしても、いったいなんなんだろうなあれは、とお思いの諸兄姉は、というか、おれもそう思っているのだが、ちょいとググってみられるがよろしい。
Google:電波会計士 松阪
とくに三重県よろずやさんのブログが参考になると思うけど、いくら参考になったところで、いったいなんなんだろうなあのきちがいは、という疑問は解明されることがない。
そんなことはともかく、ちゃんと考えてちゃんと決める、という件である。
お役所では、それがなかなかできない。
逆に、適当に考えて適当に決める、という事例なら、おそらくは掃いて捨てるほどある。
たとえば、例によって例のものを例示するけれど、名張まちなか再生プランなどというのはその最たるものであった。
適当に考えて適当に決めました、の見本みたいなものであった。
ただの思いつきを羅列しただけのプランであった。
だからせめて、おれがパブリックコメントを提出して、歴史資料館なんかできるわけねーじゃねーかばーか、とか、桝田医院第二病棟の活用策がどうして一行も書かれてねーんだよばーか、とか、そういうありがたい忠言を寄せてやったとき、それを素直に受け容れてプランを練り直していさえすれば、もう少しましな展開になっていたであろうものをなあ、などといまからいっても手遅れなれど、名張市は大笑いされることになるかもしれんのだぞ。
「伊賀百筆」の漫才で、名張市のまちなか再生事業が大笑いされてしまうことになるかもしれんのだぞ。
そんなことになるのは、名張市民のひとりとして、すっごくいやである。
のみならず、穴があったら入りたいような気もする。
名張まちなか再生プランといえば、先日、名張まちなか再生委員会から文書が届いていた。
9月24日、やなせ宿で臨時総会が開催され、委員会の解散が協議されるとのことである。
文書のスキャン画像がこれ。
7月26日、名張市役所で開かれた名張まちなか再生委員会の会合は、委員会の理事が四、事務局の市職員が二、計六人という少人数の集まりとなったが、こんどの臨時総会も参加者は少ないのではないかと予想される。
しかしまあ、ちゃんと解散したうえでリスタートするというのだから、委員会が規約に則ってきっちり解散できるよう、関係各位には委任状をしっかりご提出いただくようお願いしておきたい。
名張まちなか再生委員会の歩みもまた、ちゃんと考えてちゃんと決める、ということとはまったく無縁なものであったのだが、やはりいまからいってみたとてしゃーないことである。
せめて名張市には、あの事業の失敗を得がたい教訓として胸に刻むことを望んでおきたいところであるが、無理無理、とても無理であろう。
ことの本質にはいっさい眼を向けようとせず、思いつきを頼りにうわっつらをとりつくろうだけでこと足れりとする。
適切な判断が必要な場合にも、ちゃんと考えてちゃんと決める、ということをせず、脊髄反射的に易きにつくことを選んでしまう。
みかねた市民が忠言しても耳を傾けることはせず、みずから進んで泥沼をめざす。
結局、どうなるのか。
泥沼のなかで身動きがとれなくなり、八方ふさがりになるしかない。
泥沼に踏みこんで八方ふさがりとなり、ついには立ち往生してしまったまちなか再生事業を筆頭に、名張市はそんなことばっかやってんじゃね? という印象がある。
しかしもう、どうだっていい。
ほんとにどうだっていい。
どうせなにいってやったって聞きやしないんだし、聞く聞かない以前にいってやったことを理解できないんだから、おんなじことくり返して好きなだけ八方ふさがりになってればいいのよ。
だからほんとにね、乱歩のことさえちゃんと考えてちゃんと決めてくれれば、あとのことはもうどうだっていいわけね、と訴えつづけてはや一年。
乱歩のことといったって、名張市が手がけている乱歩関連事業とやらも、ほんとにどうだってかまわない。
ミステリ講演会なぞがたりなばりが官製談合の温床となり、あろうことかあるまいことか、官製談合やってまーす、と名張市がみずから嬉々として表明していることだって、腰がくだけそうにはなるけれど、いいさいいさ、華麗にスルーしてやろうじゃないの。
だからそのかわり、テロを中止してやるからそのかわり、名張市立図書館における乱歩のことだけはちゃんとしてくれんかね、と声涙ともにくだらんばかりのお願いをした去年の秋から季節はめぐり、あっというまに一年がたってしまったじゃねーかばーか、なーにちんたらしてやがんだばーか、などと思ってしまわないでもないけれど、とにかくこういう認識までたどりついていただいたわけである。
名張市立図書館が乱歩関連資料を収集するにさいしては、どうやらそのための方針とか基準とかいったものが必要であるらしく、そうした方針や基準とかいったものは、驚くべし、ちゃんと考えてちゃんと決めるべきものであるらしい。
冗談みたいな話であるが、日本でただひとつ、乱歩関連資料の収集をつづけてきた名張市立図書館には、じつは資料収集のうえでなんの方針も基準もなかったのである。
乱歩関連資料を収集いたします、と高らかに宣言しておきながら、どんな資料を収集するのか、収集した資料をどんなふうに活用するのか、そんなことはまったく考えてなかったのである。
では、なにを考えておったのか。
名張市民を対象にした乱歩作品の読書会を開こうかな、などとレベルの低いことを考えておったのである。
そんな程度のことしか考えられなかった。
お家芸である。
ことの本質にはいっさい眼を向けようとせず、思いつきを頼りにうわっつらをとりつくろうだけでこと足れりとする、という名張市のお家芸は、市立図書館の資料収集にも躍如としておったのである。
だからおれは、とっとと逃げたわけな。
乱歩の読書会の講師をやってくれんかと市立図書館から依頼されて、速攻で断ったわけな。
いやいや、そのあたりのことは過去にしつこく記したところではあるけれど、なにしろ話に進展がないものだから、ついつい蒸し返してしまうことになる。
だから方向を変えて、実践的なことを記そう。
実践的な、というのは、乱歩関連資料の収集における実践的なこと、の意味である。
たとえば来月、こんな本が出る。
ポプラ社:(017)異
乱歩作品を収録したアンソロジーである。
「百年文庫」というシリーズの一冊だが、本の大きさは文庫本サイズではないらしい。
価格は七百八十八円。
乱歩の「人でなしの恋」のほか、ビアスの「人間と蛇」、ポーの「ウィリアム・ウィルスン」が収められている。
さて、名張市立図書館はこれをどうするか。
乱歩関連資料として購入すべきかどうか。
以前からいってるとおり、明確な方針や基準は存在していない。
かりに、アンソロジーは収集しない、という方針が打ち出されているのであれば、この『異』という本は乱歩関連資料ではない、ということになる。
したがって、購入する必要はない。
しかし、乱歩の自己収集を踏襲し継承する、という方針にもとづくのであれば、この本もまた収集の対象になる。
乱歩の自作目録では、こうしたアンソロジーも「収録本」として著作に数えられているからである。
つまり、資料収集の方針や基準が明確にされていないことには、わずか七百なんぼの本を一冊購入する場合にも判断がつきかねる、ということになるのである。
ところで、先週木曜のことであったが、乱歩作品を収録したこんな本が出るよ、とこの『異』のことを電話で教えてくださったかたがあった。
それはこちらも承知していたのだが、そのかたによると、これはポプラ社の営業スタッフからお聞きになった情報とのことであったが、この「百年文庫」というシリーズ、分売不可であるという。
それはまったく知らなかったので、さっそくポプラ社のサイトで確認してみたところ、たしかにこうなっていた。
ポプラ社:百年文庫50巻セット(分売不可)
定価は三万九千三百七十五円。
個人で購入するとなると、二の足を踏まざるをえない値段である。
一冊の本を入手するために、まったく必要のない四十九冊の本までいっしょに購入する、というのはかなりきつい話である。
個人のみならず、名張市はなにしろ財政難なのだから、名張市立図書館も二の足を踏んでしまうかもしれない。
七百なんぼの本なら買えるけど、四万ちかい本を乱歩関連資料として購入することはできません、ということになるかもしれない。
しかし、それならそれでいいのである。
ない袖は振れない。
買えないのであれば、買わなければいいのである。
ただしその場合にも、この『異』という本は乱歩関連資料として収集すべき本ではありますが、「百年文庫」をワンセット購入するだけのお金はありませんので、名張市立図書館は『異』という本を所蔵しておりません、といったことをはっきりさせておくことが必要である。
そしてそのうえで、『異』という本の書誌データを、それはもう本屋さんで立ち読みしながらこっそり写してきてでもいいから、乱歩関連資料の一冊として記録しておくことが肝要である。
とにかく、買う買わない以前に、資料収集の方針や基準をはっきりさせておかなければならない、ということなのである。
そんなあたりまえのことが、いったいどうしてできないのか。
市立図書館が開設されたとき、この図書館は乱歩関連資料を収集してまいります、と決めたのであれば、そのときどうして、収集の方針や活用の方向性を明確にする、という当然すぎるほど当然のことをしなかったのか。
おれにはそれがふしぎでならんのだが、久繁哲之介さんの『地域再生の罠──なぜ市民と地方は豊かになれないのか?』から再度引くならば、「勉強しない、働かない、何も考えようとしない、澱んだ空気」が名張市にも市立図書館にも充満していた、ということであろうな。
乱歩関連資料を収集するというのであれば、まず乱歩のことを勉強しなければならん。
そのうえで、市立図書館が乱歩にかんしてどうすればいいのか、それを考えることがどうしたって不可欠である。
ところが実際には、なにも考えようとはせんかったんだもんなあ。
ろくに乱歩作品を読んだこともなく、乱歩のことをまともに考えたこともないおつむで、乱歩の読書会がどーたらこーたら、そんなことを思いつくのが関の山であったのだものなあ。
まったくひどい話である。
前エントリにも記したとおり、乱歩関連資料を収集いたしますと公言した時点で、名張市立図書館はひとつの社会的責務をみずから引き受けた、公的使命をみずから担った、ということになるわけなんだけど、お役所の人には責務とか使命とか、そういったことばは理解できんのであろうからなあ。
しかしまあ、ひどいひどいと嘆いていたってしかたがない。
名張市役所のみなさんが、ちゃんと考えてちゃんと決める、ということにどうか目覚めてくださいますように、とマリアさまにお祈りでもしてみっか。
きゃはは。
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