三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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とうとうすだぞおしまいのすだぞ
ついに、す、である。
いろは四十八文字の最後の文字である。
乱歩のことを考える、と題して、四十八のエントリを綴ってきたことになる。
それが、す、まで来た。
つまり、おしまいである。
なんぼなんでも、すが来るまでには名張市役所のみなさんとのおはなしも終わっておるであろうな、と思うておった。
なんのなんの、まだである。
名張市役所のみなさんに、乱歩のことを考える、という不慣れでもあれば不向きでもあることをやっていただいて、まだおしまいになっていない。
だが、ありがたいことに、前エントリでも述べたとおり、こういった認識まではたどりついていただいた。
名張市立図書館が乱歩関連資料を収集するにさいしては、どうやらそのための方針とか基準とかいったものが必要であるらしく、そうした方針や基準とかいったものは、驚くべし、ちゃんと考えてちゃんと決めるべきものであるらしい。
でもって、なにも考えず、なにも決めようとしない名張市役所のみなさんに、ちゃんと考えてちゃんと決める、ということをしていただいているわけである。
ところで、半月ほど前、2ちゃんねるで知ったことであるが、
──役人はできない理由をすぐにいい
という川柳があるらしい。
ひねりはないが、そのぶんストレートに急所をついている。
役人はできない理由をすぐにいい、か。
ほんと、そのとおりだよな。
日本全国津々浦々、お役人の習性というのはまさしくそうだよな、としみじみ思ってしまう。
ではここで、前エントリにつづいて、久繁哲之介さんの『地域再生の罠──なぜ市民と地方は豊かになれないのか?』から引く。
日本一人口の多い村、岩手県滝沢村が2006年に「日本経営品質賞」を地方自治体として初の受賞は話題を集めた。日本経営品質賞は、顧客視点から経営全体を運営し、自己革新を通じて新しい価値を創出する企業を表彰するものだ。現代日本の地域づくりに最も欠ける「顧客志向」が重視される賞である。「日本経営品質賞公式WEB http://www.jqaward.org/)」に、滝沢村の受賞理由について興味深い文言がある。
自治体固有の風土・文化の打破をめざして、職員一人ひとりの意識改革を進め(以下、略)
「自治体固有の風土・文化の打破をめざし」という文章から、選考委員である財界人が自治体という組織をどのように見ているかをうかがい知ることができる。この文脈を推し量るならば、財界人の目には、「自治体固有の風土・文化」とは「打破されるべきもの」と映っているのであろう。
では、自治体固有の「風土・文化」とは、いったいどのようなものなのだろうか。それをご理解いただくためには、滝沢村を変革した元村長の柳村純一さんの言葉を借りるのが最もわかりやすい。
村長就任当初の滝沢村役場は、ご多分にもれず、“お役所仕事”が幅をきかせていた。縦割り主義の弊害である“縄張り意識”が蔓延し、決してよその部署と連携することはなかった。前例の踏襲ばかり重んじ、新規の施策など受け入れようともしない。“事なかれ主義”の横行、稟議書を提出してから決裁まで二週間を要するスピードの遅さ……。職員を見わたせば、読んでいるのは、新聞といえばスポーツ新聞と競馬新聞だけ、あるいはパチンコ必勝法の雑誌やエロ本の類ばかり。昼間は職場をウロウロしていて、夕方になると残業代目当てに机に向かう職員もいるなど、勉強しない、働かない、何も考えようとしない、澱んだ空気が職場に充満していた(『日本一の村を超優良企業に変えた男』講談社、2007年、3頁)。
この文章には「ただし書き」が必要だと思う。たしかに、ここに書かれるような公務員(前者)は少なからずいる。しかし、公益意識とコスト意識の高い情熱に溢れた優秀な公務員(後者)の方が数的には多い。問題とすべきは、「自治体固有の風土・文化」に支配される世界では、本来なら評価されて当然である後者は評価(昇進)の対象となり難く、前者が権限を有する地位に就いてしまい、公益に結びつかない無駄な事業に税金を浪費し続けていることにある。
この元凶は、財界人も指摘するように、公務員個人にあるのではなく、「自治体固有の風土・文化」にある。この打破は地方の再生、ひいては日本経済活性化にきわめて有効だと思う。
滝沢村の村長がどんな変革を進めたのか、それはこの本には記されていないが、ここにあげられた変革以前の「自治体固有の風土・文化」は、名張市役所にも共通するものではないのか。
「お役所仕事」
「縦割り主義」
「縄張り意識」
「前例の踏襲」
「事なかれ主義」
「スピードの遅さ」
これらはみな、多かれ少なかれ、名張市役所にもみられる傾向ではないのか。
「勉強しない、働かない、何も考えようとしない」
こういった職員もまた、はっきりいって、名張市役所に存在していないわけではあるまい。
というより、ごろごろしているのではないか。
そんなみなさんが束になって、
──役人はできない理由をすぐにいい
みたいな攻撃に出てくるのだから、相手をする市民はたまったものではないと思う。
しかしまあ、いくら名張市役所だって、「勉強しない、働かない、何も考えようとしない」職員ばかり、というわけでもないであろう。
実際、そこそこ有能そうなのに「自治体固有の風土・文化」にスポイルされている、みたいな職員も、みかけないわけではない。
要するに自治体固有の風土と文化がよくないのでござるの巻、といったことか。
変革するのは大変であろうな。
いやいや、そんな遠大なテーマは横におくとして、とりあえずこれである。
名張市立図書館が乱歩関連資料を収集するにさいしては、どうやらそのための方針とか基準とかいったものが必要であるらしく、そうした方針や基準とかいったものは、驚くべし、ちゃんと考えてちゃんと決めるべきものであるらしい。
ほんとのことをいうと、名張市立図書館が乱歩関連資料の収集をつづけるべきかどうか、名張市役所のみなさんには、まずそれを考えていただくべきなのである。
しかし、これを考えると、堂々めぐりになってしまう。
ちゃんとやります、というのであればつづけるべきだし、ちゃんとしたことはできません、というのであれば、そんなことに税金をつかうのはやめるべきである、ということになる。
ちゃんとやるというのは、どういうことか。
それがわからないから、堂々めぐりをするしかないのである。
名張市立図書館における乱歩関連資料の収集について、順序立てて考えてみる。
なぜ収集するのか。
この質問を、根拠や理由を尋ねるものだと解釈するならば、答えは、名張市が乱歩の生誕地だから、ということになる。
乱歩生誕地にある公共図書館が乱歩関連資料を収集するというのは、べつに不自然でも不合理でもない話である。
むろん、収集しなくたってかまわない。
いっぽう、この質問が目的を問うものだとすれば、つまり、なんのために収集するのか、という問いかけだとすれば、答えるのはやや骨かもしれない。
しかし、いずれにせよ、明確な目的もなしに収集するのは、少なくとも税金の使途としてけっして適切なものではない、ということはできるはずである。
さらに、こうした点も明確にしておかなければならない。
なにを収集するのか。
ひとくちに乱歩関連資料といっても、定義のしかたはいくらでもある。
たとえば、乱歩自身の著書にかぎる、というのもありだし、乱歩作品が掲載された新聞と雑誌にかぎる、と規定することも可能である。
必要なのは、資料収集のルールをはっきりさせておくことである。
名張市立図書館には、それがまったくできていなかった。
というか、いま現在もそうである。
なんの方針も基準もない。
しかし、なんの方針も基準もありません、というのは、話として通用しない。
なぜか。
名張市立図書館は過去、収集資料にもとづいて三冊の目録を発行しているからである。
この目録は、いってみれば、名張市立図書館は乱歩が手がけていた自己収集を引き継ぎました、乱歩自身による乱歩関連資料収集の方針と基準を受け継ぎました、という宣言である。
マニフェストである。
これらの目録を手にとれば、名張市立図書館が乱歩の自作目録にもとづき、いわば乱歩の遺志を継ぐかたちで、乱歩関連資料の収集をつづけているということが、よくわかるようになっている。
ところが、困ったことに、「勉強しない、働かない、何も考えようとしない」みなさんには、それがわからない。
そもそも、目録を手にとろうともしない。
たまに手にとっていただいたとしても、
「これ二冊ありますけどさなあ、こっちとこっち、表紙は違いますわてなあ。せやけど、中身はほれ、どっちも字ィ書いてあって、二色刷で、ふたつともおんなじですねさ。これ、こっちとこっち、どこが違いますの」
などと、驚天動地のお尋ねをたまわってしまう次第である。
そんなみなさんが、
──役人はできない理由をすぐにいい
と来るんだから、ほんとにもう大変だぞ。
いやいや、そんなことはまあいいとして、収集の方針や基準を明確にする、ということができたならば、そのあとはこうである。
どう活用するのか。
この問題は、なんのために収集するのか、という問題とリンクしてくる。
つまり、目的である。
収集というのは、明確な目的のもとに進められるべきなのである。
ただ漫然と、乱歩関連資料を収集しますとぶちあげておきながら、なにを集めていいのかもわからず、集めた資料をどう活用していいのかもわからない、みたいなことでいいわけがない。
なんのために、なにを収集し、どう活用するのか、それが一本の線として考えられてなければならんわけである。
しかし、実際には、それがまったくできておらんわけである。
「勉強しない、働かない、何も考えようとしない」みなさんがいくら束になっても、どうにもならんのである。
乱歩作品を読み、乱歩がどういう作家だったのかを理解するだけで、いくらでも適切な判断がくだせるというのに、すなわち、ちゃんと考えてちゃんと決めることができるというのに、それをしようとせんのである。
だから、なにをやっても、思いつきの域を出ることができない。
たとえば、乱歩都市交流会議、という思いつきである。
こんなものに、なにか意味があるのか。
ない。
ないからこそ、ただつくっただけで、そのあとはなにひとつしていないのである。
しかも、三重県内にある乱歩ゆかりの都市をまとめるにあたって、伊賀市をはずすという大失態を演じている。
ちゃんと勉強せず、ちゃんと考えることをせず、ただの脊髄反射的な思いつきだけにもとづいてものごとを決めておるから、こういうことになるのである。
いやまあ、おれだって、名張市行政の実態というものについて、ある程度の知識はあるつもりである。
だから、もうどうしようもないな、とは思うぞ。
乱歩関連事業だけにかぎってみても、乱歩都市交流会議などという愚劣な思いつきを口走る程度のことしかできないし、やはり思いつきではじまったミステリ講演会と来た日には、いまや官製談合の温床になり果ててしまっておるではないか。
ひどい話である。
官製談合なんてのはどこにでも転がってる話かもしれんけれど、さすがにそれを市長名義の文書でうれしげに公表してしまう自治体なんて、たぶんめったにないと思うぞ。
これはもう、モラルハザードと呼んでしかるべき事態であろう。
ここ名張市においては、行政運営のうえで当然要求されるモラルというものが、すっかりおかしくなってしまっているらしい。
なんともひどい話である。
ひどいけれども、どうしようもあるまい。
なにいってやったって、そもそも理解ができんのである。
だから、どうにかしようと思ったらテロしかないんじゃね? と以前からゆうとるわけなのである。
しかし、それもあほらしい。
だから、テロにはせんから乱歩のことを考えてくれんかね、とお願いしているわけである。
名張市立図書館における乱歩関連資料の収集だって、もとはといえば思いつきからはじまったことでしかない。
しかし、資料収集というのは、講演会のように単発的なものではない。
持続的な行為である。
四十年もつづけていれば、資料もそれなりに蓄積されている。
思いつきではじまった資料収集も、ちゃんと方向づけをし、ちゃんと肉づけしてゆくことで、有用有益なデータベースとして全国に発信することができるのである。
そのためには、いまあげたみっつの問いにちゃんと向きあい、ちゃんと考えてちゃんと決める、ということをやっていただく必要がある。
なぜ収集するのか。
なにを収集するのか。
どう活用するのか。
このみっつの問いかけに、ちゃんと答えてくれんかね、ということなのである。
みたいなことをお願いしつづけて、はや一年ちかくが過ぎにけり。
ほんと、これはお願いなわけな。
ちゃんとしてくれ。
ちゃんと考えて、ちゃんと決めてくれ。
おれはそれをお願いしている。
なんべんもしつこく記すけれど、乱歩にかんしてなにをしていいのかわかりません、と名張市立図書館がいうから、こういうことをすればいいのである、とおれは身をもって示してやったわけな。
で、それっきりなのである。
うんともすんとも返答がないのである。
どうしようもないなまったく。
「勉強しない、働かない、何も考えようとしない」みなさんにこんなこといったってしかたないけど、目録三冊を発行したことで、名張市立図書館は乱歩の自己収集を受け継いでおります、とすでに公表しておるわけである。
でもって、自分たちの都合しか考えないみなさんには理解できないことであろうけれども、乱歩関連資料を収集すると決め、それをはじめた時点で、名張市立図書館はひとつの社会的責務をみずから引き受けた、公的使命をみずから担った、ということになるわけなのである。
いややっぱ、理解してはいただけぬかもしれんな。
みたいなことで、8月はきょうでおしまい、いろは四十八文字も最後のすの字になってしまったわけなれど、ほんと、どうするよまったく。
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