三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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きのうのつづき。死亡フラグがはたはたとひるがえる名張まちなか再生委員会歴史拠点整備プロジェクトの件からややそれて、熊野古道センターがらみの話題に突入した。
三重県が、あるいは名張市が、施設の運営を委託するというのはどういうことか、という問題である。とはいえ、三重県にしたって名張市にしたって、そのあたりの認識はずいぶんとあいまいなことであろう。というか、考えたこともないのではないか。何から何までなあなあずぶずぶなのである。施設運営における主体性という問題に、おそらくは一顧も与えることなくただぼーっと明け暮れているだけなのであろう。それでいったいなんの話かというと、指定管理者制度とか協働とかいったものに死亡フラグが立っている、という話題である。
で、これ。
三重県よろずや:指定管理者制度は自治体職員のしもべ(6月11日)
紹介されているブログに飛んでみる。
児玉克哉のブログ「希望開発」:熊野古道センターでのチベット支援の演奏会問題(6月10日)
引用。
やなせ宿の関係各位は、眼を皿にしてよくお読みあれ。「重要な方向性は自治体が決める権限を持ち」とあるのはまさにそのとおりであって、やなせ宿を貸すか貸さないか、みたいなことを決めるのは運営主体であるまちなか運営協議会ではなくて名張市である、という一事が、施設運営における主体性の実態を雄弁にものがたっているわけなのである。
そのうえ問題なのは、結局のところ民営化ってのは、労働力のダンピング合戦でコストダウンをはかるためのものでしかないという事実である。お役所はひと息つけても、社会には疲弊が蓄積される。以前にも記したことだが、そうした民営化を手法とするニューパブリックマネジメントにはいずれ見直しが迫られるはずである、と思っていたら、もうそうした時期を迎えているらしい。問題はすでに「顕著化」しており、システムそのものが「崩壊」するだろう、と児玉克哉さんは予測していらっしゃる。
やなせ宿はどうか。これはひどい。無茶苦茶である。民営化もくそもない。なんのコストも必要なかったところに、あえてコストを生じさせてみました、というのが名張市のやなせ宿整備事業なのである。今年度は約二百五十万円の運営費が投じられるというが、来年度以降はどうなるのか、いまだ誰にもわからない。そもそもなんのための施設であるのか、それがいっさい不明なのである。かんじんなことは何も考えず、ただハコモノとしての整備だけが進められた施設なのである。
指定管理者制度を導入するといったって、やなせ宿でいったい何をすればいいのか、誰にも見当がつかないのである。6月1日の名張まちなか再生委員会総会や、6月7日のやなせ宿オープンセレモニーにおいて、やなせ宿の活用策をこれからみんなで考えていきましょう、みたいな挨拶や祝辞が堂々とスピーチされているていたくなのである。気はたしかかこら。整備工事がはじまるまでにきっちり決められておらねばならぬことを、施設がオープンしてからつらつら考えはじめるようなあほうがどこにいるか。はーい、先生、ここにいまーす、たくさんいまーす、死ぬほどいるみたいでーす、とかなんとかいっちゃって。
さらに引用。
三重県内各地の現状などむろん知るよしもないのだが、さもありなんとは思われる。だからもう、協働とかいうお遊びはそろそろおしまいにしろっつってんじゃねーか。どんなお題目をかかげてみたところで、お役所のばかと地域のばかが癒着結託した行く先なんて、いずれとんでもない泥沼だと相場は決まっているのである。泥沼にどっぷりはまって抜き差しならなくなったのが、名張市が天下に誇るやなせ宿なのである。要するに、協働だの新しい時代の公などといったお題目は、地域社会の現実にうまく適合できない行政モデルだったということであり、そうした不適合の実例でありシンボルでもあるのがやなせ宿だということなのである。
とにかくもう、指定管理者制度に死亡フラグ、協働にも死亡フラグ、それからもちろんやなせ宿にも死亡フラグが立っている。それが現実だということである。残念なことであったな。いまさら涙目になられても困るけどな。
三重県が、あるいは名張市が、施設の運営を委託するというのはどういうことか、という問題である。とはいえ、三重県にしたって名張市にしたって、そのあたりの認識はずいぶんとあいまいなことであろう。というか、考えたこともないのではないか。何から何までなあなあずぶずぶなのである。施設運営における主体性という問題に、おそらくは一顧も与えることなくただぼーっと明け暮れているだけなのであろう。それでいったいなんの話かというと、指定管理者制度とか協働とかいったものに死亡フラグが立っている、という話題である。
で、これ。
三重県よろずや:指定管理者制度は自治体職員のしもべ(6月11日)
紹介されているブログに飛んでみる。
児玉克哉のブログ「希望開発」:熊野古道センターでのチベット支援の演奏会問題(6月10日)
引用。
私は、指定管理者制度には基本的に反対です。指定管理者が住民のサービスのために様々な工夫をすることや自分たちの思いを生かす努力をするというシステムではなく、重要な方向性は自治体が決める権限を持ち、指定管理者はただ単純な労働を安く請け負うという発想のものになっています。現在のシステムのもとでは指定管理者となったもののモーティベーションは下がりますし、経営のことを考えるなら、できるだけ活動をしないほどよいという形になります。指定管理者は「住民のしもべ」となるのではなく、「自治体職員のしもべ」と化すことになり、やる気はなくなります。指定管理者制度を採用した多くの施設で、こうした問題が顕著化しており、私は、このシステムはいずれ崩壊していくものと思っています。
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やなせ宿の関係各位は、眼を皿にしてよくお読みあれ。「重要な方向性は自治体が決める権限を持ち」とあるのはまさにそのとおりであって、やなせ宿を貸すか貸さないか、みたいなことを決めるのは運営主体であるまちなか運営協議会ではなくて名張市である、という一事が、施設運営における主体性の実態を雄弁にものがたっているわけなのである。
そのうえ問題なのは、結局のところ民営化ってのは、労働力のダンピング合戦でコストダウンをはかるためのものでしかないという事実である。お役所はひと息つけても、社会には疲弊が蓄積される。以前にも記したことだが、そうした民営化を手法とするニューパブリックマネジメントにはいずれ見直しが迫られるはずである、と思っていたら、もうそうした時期を迎えているらしい。問題はすでに「顕著化」しており、システムそのものが「崩壊」するだろう、と児玉克哉さんは予測していらっしゃる。
やなせ宿はどうか。これはひどい。無茶苦茶である。民営化もくそもない。なんのコストも必要なかったところに、あえてコストを生じさせてみました、というのが名張市のやなせ宿整備事業なのである。今年度は約二百五十万円の運営費が投じられるというが、来年度以降はどうなるのか、いまだ誰にもわからない。そもそもなんのための施設であるのか、それがいっさい不明なのである。かんじんなことは何も考えず、ただハコモノとしての整備だけが進められた施設なのである。
指定管理者制度を導入するといったって、やなせ宿でいったい何をすればいいのか、誰にも見当がつかないのである。6月1日の名張まちなか再生委員会総会や、6月7日のやなせ宿オープンセレモニーにおいて、やなせ宿の活用策をこれからみんなで考えていきましょう、みたいな挨拶や祝辞が堂々とスピーチされているていたくなのである。気はたしかかこら。整備工事がはじまるまでにきっちり決められておらねばならぬことを、施設がオープンしてからつらつら考えはじめるようなあほうがどこにいるか。はーい、先生、ここにいまーす、たくさんいまーす、死ぬほどいるみたいでーす、とかなんとかいっちゃって。
さらに引用。
6〜7年前には、市民団体と自治体とが「協働」することは新たな社会を築くことに繋がるのではないかという淡い期待がありました。今、こうした期待がことごとく吹っ飛ばされ、自治体が関連する仕事はしたくない、という市民団体も多くなりました。市民活動のモーティベーションは大きく下がっています。「新しい時代の公」のスローガンが叫ばれる一方で、三重県での市民活動はさらに停滞・低迷しつつあります。社会の力が年々落ちている、というのが私の感想です。自治体に予算もなくなる中で、自治体力も住民力も落ちていく現状。どうすればいいのか。今後の大きな課題です。
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三重県内各地の現状などむろん知るよしもないのだが、さもありなんとは思われる。だからもう、協働とかいうお遊びはそろそろおしまいにしろっつってんじゃねーか。どんなお題目をかかげてみたところで、お役所のばかと地域のばかが癒着結託した行く先なんて、いずれとんでもない泥沼だと相場は決まっているのである。泥沼にどっぷりはまって抜き差しならなくなったのが、名張市が天下に誇るやなせ宿なのである。要するに、協働だの新しい時代の公などといったお題目は、地域社会の現実にうまく適合できない行政モデルだったということであり、そうした不適合の実例でありシンボルでもあるのがやなせ宿だということなのである。
とにかくもう、指定管理者制度に死亡フラグ、協働にも死亡フラグ、それからもちろんやなせ宿にも死亡フラグが立っている。それが現実だということである。残念なことであったな。いまさら涙目になられても困るけどな。
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