三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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再々掲。
この案内板に素材としてもちいられている「ふるさと発見記」は、乱歩が生まれ故郷に置いていってくれた貴重な遺産である。名張市民の共有財産だといっても過言ではない。だから、涙が出るほどありがたいことだと乱歩に感謝を捧げつつ、案内板であろうがなんであろうが、活用できる場があれぱ活用すればいいのである。活用させていただけばいいのである。だがそれにしても、もうちょっとうまく活用させていただけぬものか実際。
「ふるさと発見記」から名張のまちの描写を抜粋してきて、それをぺたぺた貼りつける。その横に、乱歩が言及したスポットの写真を六点、やはりぺたぺた貼りつける。それでいったいどうしたの? というしかないではないか。そもそも、こんな写真が必要なのか。「ふるさと発見記」が記された当時のものであるならばともかく、現在ただいまの写真である。案内板からとことこ歩いてゆけば、いくらでも現物に遭遇できるのである。とはいえ、その現場がいったいどこなのか、案内板には明示されていない。どうやって行けばいいんだかわからない。それでは案内にならぬではないか。ほんとにいったいどうしたの?
だから幼稚園児の切り貼り遊びだといわれる。
中学生がつくった壁新聞にも劣るといわれる。
中学生がつくった壁新聞なら、読者というものをちゃんと想定できているはずである。だれに読んでもらうための新聞かということが、しっかり認識できているはずである。この案内板にはそれがない。なんのためのものか、だれのためのものか、そうした視点が欠如している。ここにみられるのは野放図なまでの幼児性であり、頑迷なまでの自己中心性なのである。念のため、辞書へのリンク。
大辞泉:自己中心性
文章の抜粋だって同様である。幼稚園児が眼についたものをすべて抱えこみ、自慢げに運んでくるみたいな真似をする必要はない。案内板に「ふるさと発見記」の抜粋を入れたいというのであれば、「名張の町そのものも美しい。四方を遠山にかこまれ、大火にあっていないと見えて、昔ながらの城下町の風情を残している」というあたりだけで充分である。ポイントを絞りこむというテクニック、素材をあえて捨てるという手法をおぼえておくべきであろう。捨てるのはもったいない、という倹約好きな主婦のような意見もあるかもしれないが、別の場で活かせばいいだけの話である。すなわち、やなせ宿の出番である。
やなせ宿である。この案内板とまったく同様、なんのためのものか、だれのためのものか、そういったことを毛筋ほど考えることもなくたったかたったか整備だけが進み、いまや無駄に立派な公衆便所つきの名張地区第二公民館として市民のまえにその威容を現した、あの細川邸改めやなせ宿の出番である。やなせ宿に案内パンフレット置いてまーす、でおなじみのやなせ宿の出番なのである。
つまり、なんでもかんでも案内板につめこんでしまうのではなくて、「ふるさと発見記」をモチーフにしたパンフレットをつくればいいのである。それをやなせ宿に置いておけばいいのである。情報には、それにふさわしい器というものがある。逆にいえば、器にはそれにふさわしい情報というものがある。案内板には案内板に、パンフレットにはパンフレットに盛るべき情報というものがある。だから、やなせ宿に案内パンフレット置いてまーす、でおなじみのやなせ宿の出番なのである。案内板ひとつつくるにしてもだな、たとえばパンフレットとの相乗効果を考えるといったような、多少なりともトータルな視点に立つことができんものかこら。
たとえばあの六枚の写真だって、案内板ではなくパンフレットなら生きてくる。それがどこに存在するのかを示しておけば、パンフレット片手に乱歩の言及スポットをめぐる散策が楽しめるであろうし、なにより、まちなかの散歩者が名張の地を去り、それぞれの地域、それぞれの家庭に戻ったあとには、パンフレットの写真は名張のまちを懐かしく思い出してもらうためのよすがともなるであろう。
パンフレットではなくてリーフレットだが、おそらく参考になるであろう見本を示しておく。現物のスキャン画像が手許にないため、印刷原稿のpdfをgif画像にする。
高校生のつくったリーフレットなんか参考にしてられるかばーか、とかほざいてんじゃねーぞ低能。しかしまあ、やなせ宿においては、「地域の案内パンフレットや散策地図を置き、旧市街地を訪れた人が情報集めや休憩ができる場にする」(朝日新聞)そうなのであるから、いずれ自前のパンフレットも登場することであろう。「ふるさと発見記」を素材としたものであろうとなかろうと、あまりにも出来が悪いものであればまた、このブログにおいてパンフレットデザイン講座低級篇を開講することになるかもしれない。心して励むように。
この案内板に素材としてもちいられている「ふるさと発見記」は、乱歩が生まれ故郷に置いていってくれた貴重な遺産である。名張市民の共有財産だといっても過言ではない。だから、涙が出るほどありがたいことだと乱歩に感謝を捧げつつ、案内板であろうがなんであろうが、活用できる場があれぱ活用すればいいのである。活用させていただけばいいのである。だがそれにしても、もうちょっとうまく活用させていただけぬものか実際。
「ふるさと発見記」から名張のまちの描写を抜粋してきて、それをぺたぺた貼りつける。その横に、乱歩が言及したスポットの写真を六点、やはりぺたぺた貼りつける。それでいったいどうしたの? というしかないではないか。そもそも、こんな写真が必要なのか。「ふるさと発見記」が記された当時のものであるならばともかく、現在ただいまの写真である。案内板からとことこ歩いてゆけば、いくらでも現物に遭遇できるのである。とはいえ、その現場がいったいどこなのか、案内板には明示されていない。どうやって行けばいいんだかわからない。それでは案内にならぬではないか。ほんとにいったいどうしたの?
だから幼稚園児の切り貼り遊びだといわれる。
中学生がつくった壁新聞にも劣るといわれる。
中学生がつくった壁新聞なら、読者というものをちゃんと想定できているはずである。だれに読んでもらうための新聞かということが、しっかり認識できているはずである。この案内板にはそれがない。なんのためのものか、だれのためのものか、そうした視点が欠如している。ここにみられるのは野放図なまでの幼児性であり、頑迷なまでの自己中心性なのである。念のため、辞書へのリンク。
大辞泉:自己中心性
文章の抜粋だって同様である。幼稚園児が眼についたものをすべて抱えこみ、自慢げに運んでくるみたいな真似をする必要はない。案内板に「ふるさと発見記」の抜粋を入れたいというのであれば、「名張の町そのものも美しい。四方を遠山にかこまれ、大火にあっていないと見えて、昔ながらの城下町の風情を残している」というあたりだけで充分である。ポイントを絞りこむというテクニック、素材をあえて捨てるという手法をおぼえておくべきであろう。捨てるのはもったいない、という倹約好きな主婦のような意見もあるかもしれないが、別の場で活かせばいいだけの話である。すなわち、やなせ宿の出番である。
やなせ宿である。この案内板とまったく同様、なんのためのものか、だれのためのものか、そういったことを毛筋ほど考えることもなくたったかたったか整備だけが進み、いまや無駄に立派な公衆便所つきの名張地区第二公民館として市民のまえにその威容を現した、あの細川邸改めやなせ宿の出番である。やなせ宿に案内パンフレット置いてまーす、でおなじみのやなせ宿の出番なのである。
つまり、なんでもかんでも案内板につめこんでしまうのではなくて、「ふるさと発見記」をモチーフにしたパンフレットをつくればいいのである。それをやなせ宿に置いておけばいいのである。情報には、それにふさわしい器というものがある。逆にいえば、器にはそれにふさわしい情報というものがある。案内板には案内板に、パンフレットにはパンフレットに盛るべき情報というものがある。だから、やなせ宿に案内パンフレット置いてまーす、でおなじみのやなせ宿の出番なのである。案内板ひとつつくるにしてもだな、たとえばパンフレットとの相乗効果を考えるといったような、多少なりともトータルな視点に立つことができんものかこら。
たとえばあの六枚の写真だって、案内板ではなくパンフレットなら生きてくる。それがどこに存在するのかを示しておけば、パンフレット片手に乱歩の言及スポットをめぐる散策が楽しめるであろうし、なにより、まちなかの散歩者が名張の地を去り、それぞれの地域、それぞれの家庭に戻ったあとには、パンフレットの写真は名張のまちを懐かしく思い出してもらうためのよすがともなるであろう。
パンフレットではなくてリーフレットだが、おそらく参考になるであろう見本を示しておく。現物のスキャン画像が手許にないため、印刷原稿のpdfをgif画像にする。
高校生のつくったリーフレットなんか参考にしてられるかばーか、とかほざいてんじゃねーぞ低能。しかしまあ、やなせ宿においては、「地域の案内パンフレットや散策地図を置き、旧市街地を訪れた人が情報集めや休憩ができる場にする」(朝日新聞)そうなのであるから、いずれ自前のパンフレットも登場することであろう。「ふるさと発見記」を素材としたものであろうとなかろうと、あまりにも出来が悪いものであればまた、このブログにおいてパンフレットデザイン講座低級篇を開講することになるかもしれない。心して励むように。
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