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三重県名張市のかつての中心地、旧名張町界隈とその周辺をめぐる雑多なアーカイブ。
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江戸川乱歩の著書や関連資料の収集は進める。だが、その活用については何も考えない。考えようとしない。考える能力がない。驚くべきことだが、それが名張市の実態であった。

なんのために資料収集をおこなうのか、その根拠が、みごとに欠落している。考えようともしない。せいぜい思いつくのは、市民を対象に乱歩作品の読書会を開くといった程度のことである。それが名張市立図書館の実態であった。

十二年前、平成7・1995年10月に、名張市立図書館の依頼をうけて嘱託になった。経緯はウェブサイト名張人外境の「乱歩文献打明け話」に記してあるから、ここには書かない。

嘱託として手がけたのは、いうまでもなく、収集資料の活用である。市立図書館が開館準備の段階から集めてきた資料にもとづいて、江戸川乱歩の書誌をつくることである。一冊目は、乱歩について記された評論や随筆などの目録『乱歩文献データブック』をまとめた。

このあたりのことは、南陀楼綾繁こと河上進さんが、「季刊・本とコンピュータ」平成17・2005年夏号のルポ「そして、本だけが残る──三人の「出版者」との対話」にまとめてくださったので、引用しておく。

   
書誌の出版を提案した理由を、中さんは「自分が使う立場だったら、絶対欲しいと思ったから」と語る。それとともに、長年かけて集まった乱歩関係の資料を、名張市民だけにしか提供しないのはもったいない。ここにしかない貴重な資料を全国の乱歩ファンや研究者に向けて提供するのが、公共図書館が本来行なうべきサービスなのだという確信もあったという。
嘱託になってすぐ、次年度の予算を要求するとともに、『文献』(『乱歩文献データブック』のこと──引用者註)の準備にかかった。平井隆太郎(乱歩長男)・中島河太郎(推理小説評論家)両氏に監修を依頼し、先行する資料をもとに調べを進めていった。その後、新聞で『文献』が準備中であることが記事になり、県内外のミステリーマニアから資料を借りたり、情報を得たりすることができた。そうして得たデータをワープロソフトに打ち込んでいき、索引も一人で作成した。『文献』の発行は一九九七年四月(奥付は三月末)。企画から発行まで、約一年半。予算上、年度内に出す必要があったとはいえ、これは驚異的な早さである。

収集資料にもとづいて、といっても、名張市立図書館に存在しない資料も多い。お役所の思考法でいえば、所蔵資料だけを目録化すればいいということになるのだが、それでは「自分が使う立場だったら、絶対欲しいと思」う書誌にはならない。

市立図書館が所蔵していない資料を確認したり調査したりする作業は半端ではなかったが、とにかく三冊の書誌をまとめることができた。
  1. 乱歩文献データブック 平成09・1997年3月31日
  2. 江戸川乱歩執筆年譜  平成10・1998年3月31日
  3. 江戸川乱歩著書目録  平成15・2003年3月31日
『乱歩文献データブック』でも「県内外のミステリーマニアから資料を借りたり、情報を得たりすることができた」のだが、そのあとの二冊の書誌をつくる過程では、さらに数多くの方から協力していただいた。

とくに三冊目の『江戸川乱歩著書目録』を編纂したときには、全国の乱歩ファンやミステリーマニアのあいだに、名張市立図書館のやろうとしていることへの理解が、ある程度、浸透していることが感じられた。だから、実際、多くの方から激励や教示をたまわることができた。

その嬉しさは、文字どおり筆舌につくしがたいものではあったが、『江戸川乱歩著書目録』の解題「ふるさと発見五十年」では、できるかぎりの範囲内でつくしておいた。結びの三段落を引く。

   
本書編纂にあたっては、平成十三年十二月から立教大学移管後の十四年六月まで数回にわたり、当主の平井隆太郎先生からご高配をいただいて、旧宅に保存された乱歩の著作を調査する機会を得た。もとよりすべてに眼を通せたわけではないが、著書目録として一応の体裁を整えられたのはご遺族のご協力のたまものにほかならない。
また、小林眞さんのホームページ「小林文庫」(http://www.st.rim.or.jp/~kobashin/)の電子掲示板では、閲覧者からの投稿という形で乱歩の著作についてさまざまなご教示に与った。未知の探偵小説ファンから寄せられた数々のご厚意は、それらの人々の乱歩その人への敬愛のあらわれとしても忘れがたい。お力添えを忝くしたすべての方に心からお礼を申しあげる。
最後にひとつだけ、残念な事実を記しておかなければならない。江戸川乱歩リファレンスブック1、2のご監修をいただいた中島河太郎先生が、平成十一年五月五日に白玉楼中の人となられた。あらためてご冥福をお祈りする次第である。

こうした協力が寄せられたということは、いや、協力といっても、実際には、資料の調査や確認で多くの人に手間や厄介を押しつけただけのことなのだが、とにかくそうした協力をいただくことができたのは、要するに、名張市立図書館がつくろうとしていた書誌に、「それらの人々」が意義や必要性を認めてくださっていたということである。

こうした協力関係は、信頼関係につながってゆく。河上進さんの「そして、本だけが残る──三人の「出版者」との対話」には、『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』のことも書いていただいてあるので、引用しておく。

   
中さんは、千葉県の成田山書道美術館で展示された不木から乱歩宛の書簡を見て、「これは本にしなければ」と決意した。名張市では新規の予算がつかなかったが、三重県が松尾芭蕉の生誕三百六十年にあわせて行なう「秘蔵の国 伊賀の蔵びらき」というプロジェクト(予算は三億円!)内の「乱歩蔵びらき実行委員会」の事業として、予算を取ることができた。
『子不語の夢』も自治体の発行物としては、きわめて型破りな本である。乱歩、不木の書簡の原文の翻刻に加え、大胆な解釈や推定にまで踏み込んだ脚注や、詳細な索引、論考が収録されている。書簡や封筒の画像を入れ込んだCD-ROMも付いている。もうひとつの特徴は、大学の研究者、ミステリ研究家、小酒井不木サイトの運営者、編集者など、プロ/アマ、アカデミズム/在野の違いにこだわらない人的ネットワークによって本書がつくられたことである。自治体の予算を使いながらも、その枠を大きくはみ出す本づくりを行なっているのだ。

名張市立図書館のためなら、というか、江戸川乱歩のためなら、いくらだって一肌ぬいでやろう、とおっしゃる方が世の中には存在する。そうした人たちとの協力関係や信頼関係を基盤にすれば、貴重な「人的ネットワーク」を組織することも可能である。そうしたネットワークは、まぎれもなく、名張市という自治体にとっての財産である。

そのあたりのことは、『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』にいただいた野呂昭彦知事の序文「江戸川乱歩と「新しい時代の公」」にも、ちゃんと記されている。かつてウェブサイト名張人外境に引いたところを、さらに引用しておく。

   
近年、政治学や社会学の分野で「ソーシャル・キャピタル」という言葉を耳にします。直訳すれば社会資本という意味になりますが、これは従来のような経済的資本ではなく、人的なネットワークや信頼関係を指す言葉とされ、一般に社会関係資本と訳されています。共通の目的に向けて協働する人と人とのつながりがソーシャル・キャピタルであり、そうした社会関係資本が多く存在すればするほど、その地域はより豊かで魅力的なものになると考えられています。
今回、「乱歩蔵びらき委員会」の依頼に応えて、第一線でご活躍の研究者の方々から惜しみないご協力をいただけたのは、名張市立図書館を拠点とした社会関係資本が有効に機能した結果であり、伊賀地域や三重県が実施する事業にそうしたソーシャル・キャピタルが実り多い成果をもたらしてくれたことは、今後の地域づくりを考える上でも貴重な事例になるものと期待しております。
また、伊賀の蔵びらき事業は、三重県が本年四月にスタートさせた総合計画「県民しあわせプラン」のモデルケースとも位置づけられています。この計画では、県民、NPO、地域の団体、企業、行政など多様な主体が対等のパートナーとして協働し、「新しい時代の公」を担っていくことを目指していますが、本書はそうした新しい「公」、それも県境を越えて存在する新しい「公」によって世に送り出されるものといっても過言ではありません。

三重県においても、あるいは、名張市においても、「協働」や「新しい時代の公」と呼ばれるものの実態は、ひどいものである。先日の監査結果通知書があきらかに示していたとおり、この名張市においては、「協働」という言葉が、官と民の癒着を正当化するものとして使用されている。

だが、少なくとも『子不語の夢』についていえば、この本の出版が「新しい時代の公」の本来の理念を具体化したものであるとする知事の指摘は、妥当なものといえるだろう。

知事ですら、遠く三重県庁で職務にあたる知事ですら、「名張市立図書館を拠点とした社会関係資本」にかんして、こうした認識をおもちでいらっしゃる。だというのに、名張市鴻之台1番町1番地にそびえ立つあの愚者の城、名張市役所の連中と来た日にはどうよ。何も知ろうとせず、何も考えようとせず、ひたすら責任回避に明け暮れるばかりのあの連中はどうよ。

平成10・1998年のことである。名張市立図書館にお客さんがあった。だいじなお客さんなので、名張市教育委員会の教育次長が挨拶した。ちょうど『江戸川乱歩執筆年譜』が出たばかりだったから、お客さん全員に一冊ずつ手渡し、ご覧いただいていた。

テーブルには、『乱歩文献データブック』も置いてあった。と、横から、『江戸川乱歩執筆年譜』と『乱歩文献データブック』を手にした教育次長が、こんなことを訊いてくる。

「これ二冊ありますけどさなあ、こっちとこっち、表紙は違いますわてなあ。せやけど、中身はほれ、どっちも字ィ書いてあって、二色刷で、ふたつともおんなじですねさ。これ、こっちとこっち、どこが違いますの」

ばかなのである。もう野放図なまでの、眼もくらまんばかりのばかなのである。そもそも本というものは、たんに字を印刷してあるだけのものなのである。その字を読まなければ、中身の違いはわからぬのである。

名張市の職員がすべて、全員が全員、どうしようもないばかであるというつもりはない。だいたい、職員個々のことなどよく知らない。だが、総体としてみれば、アベレージを求めるならば、これはもうばかだとしかいいようがないだろう。そして、なかには相当なばかがいて、ただ市職員として甲羅を経ているというそれだけの理由で、その手ひどいばかが教育次長を務めていたのである。

大丈夫か名張市。
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ほとんど無縁な作家なのに、名張の人はどうして江戸川乱歩に接近したがるのか。それは、名張生まれの著名人がほかに存在しないからである。

昭和31・1956年1月に発表された随筆「生誕碑除幕式」で、江戸川乱歩はこのように述べている。

   
たとえ生誕碑にもせよ、自分の碑の除幕式に列するなんて、あまり例のないことだろうと思うが、名張市というところが、従来中央で多少名を知られたような人を、一人も出していないために、私のようなものでも、珍らしがって取り上げてくれたのだろうと思う。市の企画とか、個人の金持の企画とかいうのでなく、町の人々が、自発的に六十年もごぶさたしていた私に対して、こういう好意を見せて下さったのは、実にありがたいことだと思っている。

中央で名を知られた人というのは、やはりなんというのか、郷党の名誉心をくすぐるものなのである。名張を訪れて「ふるさと発見」をはたした乱歩のために、「町の人々が、自発的に」動いたのは当然のことだろう。江戸川乱歩というビッグネームを名張の自己宣伝に利用するという、なかば無自覚な計算もなかったはずはないのだが、まちの人から浄財を募って石碑を建てただけなのだから、身のたけ身のほどをわきまえた話ではあるだろう。

生誕地碑建立の十年後、昭和40・1965年7月28日、江戸川乱歩死去。七十歳。

その四年後、昭和44・1969年、講談社版江戸川乱歩全集の刊行がはじまり、第1巻『屋根裏の散歩者』の月報に、川崎秀二がこんなことを記した。

   
機会があれば郷里の名張市に江戸川乱歩文庫でもつくり、この偉大な先人を顕彰したいと思う。

川崎秀二は代議士。明治44・1911年に生まれ、昭和53・1978年に死去。伊賀出身の代議士、川崎克の次男。克と乱歩が親しかったため、子供のころから乱歩に可愛がられた。昭和27・1952年の「ふるさと発見」も、秀二が乱歩に衆議院議員選挙の応援演説を依頼したことが機縁となっている。

その秀二が、「江戸川乱歩文庫」を語り、乱歩の「顕彰」を語った。名張市が乱歩にかんしていささか勘違いし、身のたけ身のほどというものを忘れはじめたのは、たぶんこのときのことだろう。

秀二のひろげた大風呂敷がきっかけとなって、乱歩記念館建設の話がもちあがった。記念館建設を進める組織も発足した。しかし、ぽしゃった。

平成14・2002年1月、伊和新聞の新年号に掲載されたインタビューで、当時の名張市長が虚偽としか思えない発言をした。名張市教育委員会に確認すれば、虚偽かどうかは容易に判明する。当時の教育長に文書を提出し、市長発言が虚偽かどうかを質問した。

しかし、名張市教育委員会というのは、人の質問に答えようとしないところである。当時の教育長からは、なんの返答ももたらされなかった。

四十日ほどたってから、教育長ではなく、教育委員長をお務めだった辻敬治さんから、回答の文書を頂戴した。ウェブサイト名張人外境に掲載してある全文から、乱歩記念館をめぐる動きを引いておく。

   
江戸川乱歩記念館の建設構想は、昭和30年の生誕地記念碑の建設から十数年を経て、昭和44年に旧電話局跡の市立図書館の開館を機に、その一角に「郷土が生んだ推理小説界の大先達江戸川乱歩の業績を顕彰するため“江戸川乱歩文庫”をつくろうとの提唱が一部の有識者から出され」「どうせつくるなら百尺竿頭一歩を進めて独立の乱歩記念館を建設しよう」と云うことになり記念館建設の会が発足されました。(新名張昭和44年5月30日号・同建設趣意書ほか)このことは、講談社の『江戸川乱歩全集』第一巻月報に載せられた衆議院議員故川崎秀二氏の「茶目っ気もあった乱歩氏」の一文も大きく関わったようです。
以後、秀二先生を通じていろいろな話し合いがあったと聞いており、当時の北田市長が直接乱歩先生に蔵書の寄贈を懇請したとも聞いております。乱歩先生も北田市長の剽軽さについ乗せられて寄贈に同意されたとも聞き及んでいます。
しかし、こうした計画は一朝一夕にしてなし得るものではなく、まして、市民グループの活動であり、或いは老いられ、或いは鬼籍に入られるものもあり、計画は進まないままに置き去られてきました。

昭和44・1969年7月、名張市に市立図書館が誕生した。場所は、現在の桜ヶ丘ではなく、丸之内。不首尾に終わった乱歩記念館構想を受けるかたちで、市立図書館による乱歩関連資料の収集が進められた。

これでよかったと思う。乱歩記念館など建設せず、新しくできた市立図書館が乱歩の関連資料を収集する。これは、名張市の身のたけや身のほどにみあったことだったと思う。

だが、驚くべし。乱歩関連資料の収集という方針は開館準備の段階から決定されていたものの、集めた資料をどのように活用するのか、その点にかんする方針はいっさい決められていなかった。驚くなといわれても、驚いてしまう。
みてきたとおり、江戸川乱歩と名張とは、まったくといっていいほど無縁である。接点を探すとなると、結局は新町の生家跡しかない。

明治27・1894年に生まれ、昭和27・1952年に訪れ、昭和30・1955年に生誕地碑が建てられた。たったこれだけのことである。

たったこれだけの関係を根拠にして、名張市に乱歩文学館を建設するということが、はたして理にかなった話なのかどうか。不合理であるとまではいえないが、少なくとも、身のたけや身のほどにみあった話ではないだろう。

にもかかわらず、この名張市では、何かというと、乱歩文学館や乱歩記念館の構想が浮上してくる。もとより、ろくに乱歩作品を読んだことがなく、乱歩がどんな作家であるのかも知らず、知ろうとせず、ただ乱歩というビッグネームを利用して、名張市を有名にしたいというだけの手合いがいうことである。

要するに、寝言にすぎない。だから、乱歩文学館という看板を思いつくことができるだけで、そもそも文学館がどんな施設なのかすらわきまえていないものだから、そこから先にはただの一歩も話を進められない。浮上した構想は、すぐに沈没してしまう。

昭和30・1955年11月3日、江戸川乱歩生誕地碑の除幕式が営まれ、翌4日の紙面で伊勢新聞がそれを報じた。最初の段落を引用する。行の折り返しにともなう句点の脱落は〔 〕で補う。

   
碑面に“幻影城”の自筆
和やかに乱歩生誕碑除幕式


【名張】探偵小説作家江戸川乱歩氏(六一)=本名平井太郎=が名張市で生まれたことを記念する「江戸川乱歩生誕地」の碑が文化の日の三日午前十時から同市新町、医師桝田敏明氏方の中庭で除幕された〔。〕長身をモーニングに包んだ乱歩氏は隆子夫人(五八)日本編集者協会理事長本位田準一氏とともに上機嫌で除幕式に列席、可愛い振袖姿の桝田寿美ちやん(七つ)=敏明氏長女=が除幕しようとしたとき、席から立ちあがつて愛用の八ミリ撮影機を回そうとしたので、待ち構えていたカメラマンらがあわてて着席を頼むと「どなたかこれ(撮影機)でお嬢ちやんの除幕を撮つて下さい」と元の席におさまる一コマもあつて、式は同十一時半ごろ終つた。

たったひとつの接点と呼ぶべき場所を所有者から寄贈されても、名張市に浮上したのは乱歩文学館という短絡的な発想であり、それは例によって例のごとくぶざまに沈没するしかなかった。

伊勢新聞の記事に登場した「可愛い振袖姿の桝田寿美ちやん」から、生誕地碑建立の四十九年後に電話を頂戴し、桝田医院第二病棟を名張市に寄贈する旨の申し出をいただいた身としては、名張市の知的怠惰が桝田家の厚志を踏みにじってしまった結果について、内心忸怩たるものをおぼえざるをえない。
昭和30・1955年11月3日、江戸川乱歩生誕地碑の除幕式が営まれた。招待された乱歩は、夫人とともに臨席した。

乱歩夫妻は前日、東京を発って名張に入った。

名古屋から夫妻に同道した岡戸武平が、11月6日付名古屋タイムズのコラム「茶話」に、「乱歩生誕碑」というタイトルで除幕式のことを書いている。

岡戸武平は明治30・1897年12月31日、愛知県に生まれ、昭和61・1986年8月31日、八十八歳で没した。著作権はまだ生きているのだが、著作権継承者がわからなくなっている。

鮎川哲也の編んだアンソロジー『怪奇探偵小説集』には、武平の代表作「五体の積木」が収められている。初刊は昭和51・1976年だから、武平の生前。これが平成10・1998年の文庫版になると、「ご本人あるいは著作権継承者、消息をご存じの方からのご連絡を頂ければ幸いです」として列挙された作家のなかに、武平の名前もあげられている。

岡戸武平氏の著作権継承者の方は、ぜひご連絡ください、とお願いしたうえで、全文を掲載する。

   
乱歩生誕碑

○…東京の江戸川乱歩さんから電報がきて、二日のツバメで名古屋へ行くから駅で待っていてほしい。そして都合がよかったら二、三日つき合ってほしいという電文である。駅へ出迎えると名張市に乱歩さんの生誕記念碑ができ、その除幕式が「文化の日」に行われるからであることがわかった。奥さんも同道である。お目出度いことであるので、その足でお供をして名張へ向った。雲一つない秋晴れで、午前十時からはじめられた式は、ちょっと汗ばむほどであった。
○…名張市長の小さいお嬢さんの手によって除幕された碑は、高さ六尺ほどの堂々たる自然石で、乱歩さんのお母さんが、太郎のおむつを洗ったゆかりの名張川上流にあったのを利用したものである。正面に「江戸川乱歩生誕地」と凸彫りし、その上に「幻影城」とななめに凹彫りになっている。幻影城というのは、氏の随筆の題名であり、単行本になるときもその名が用いられた。裏面には「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと・乱歩」と俳句でもなく警句でもなく、乱歩式ジュ文が彫られている。いかにも探偵作家らしい生誕碑である。台石パネルには例によって「江戸川乱歩(本名平井太郎)は明治二十七年十月二十一日当時名賀郡役所書記であった平井繁男の長男としてこの地に生れた云々」の履歴が記されている。
○…この日の模様はラジオ三重から放送されたからお聞きになった方があるかも知れないが、なかなか盛大であった。天才、郷に容れられずというが、天才乱歩は名張の寛容なる市民の手によって記念碑まで建立された。これで名張にも一つの名所ができた。場所は新町の桝田邸内であり誰でも見ることができるからおついでの節にぜひ御一見願いたいと案内記をかねての一筆、如件(くだんのごとし)【武平】

結局のところ、江戸川乱歩と名張との接点は、ただひとつ、この生家跡だけなのである。
名張市における乱歩文学館をめぐる最近のどたばた。

名張のまちのこのあたり。



こんな狭い道がある。

20070930a.jpg

この道をまっすぐ進むと、やがて本町の通りに出る。本町の通りというのは、旧初瀬街道である。

出たあたりには、そのむかし、精養軒という名前の肉屋があった。中年の夫婦が切り盛りしていて、ごま塩頭の旦那さんは痩せて顔も細長く、ひょろりとした印象の人だったが、奥さんはいかにも肉屋にふさわしいような恰幅で、押し出しも愛想もよかった。

小学生だったころ、自転車でこの道を通り、牛肉やカレールーなんかを買いにいったことはおぼえているが、その精養軒がいつ姿を消してしまったのか、いくら思い出そうとしてもわからない。

上の写真、道の右側には、白い壁の家屋がみえる。このスペースには、もともと建物がなく、中庭になっていた。昭和30・1955年、江戸川乱歩の生誕地碑が、その中庭に建てられた。

白い壁の家とそのむこうの家とのあいだには、写真ではみえないが、細い通路がある。写真の右側方向、新町の通りに出る通路である。通路の入口に、こんな標示がある。

20070930b.jpg

江戸川乱歩の生誕地碑が最初に建てられたのは、この石の標識があるあたりだった。

昭和34・1959年、一帯は伊勢湾台風で被害を受けた。桝田医院も改修を余儀なくされ、ついでに、生誕地碑のある中庭に住居が増築されることになった。

この増築にともない、生誕地碑は細い路地をまたいで、最初の写真の左側にみえていた桝田医院第二病棟の中庭に移転した。距離でいえば、せいぜい二、三メートル程度の移動である。

移転して、こんな感じになった。

20070930c.jpg

この写真は、平成17・2005年11月3日に撮影した。生誕地碑が建立されて、ちょうど五十周年という節目の日である。だからといって、セレモニーが催されるようなことなどなかったが、せめて五十年目のありさまを写真に記録しておこうと思い、足を運んだ。

「乱歩文学館」という掲示があった。「乱歩生誕地碑をふくみ、将来は乱歩に関する様々な情報を集めた、乱歩文学館として整備を予定しています」という説明が書かれていた。

こういう意味不明なことをするのは、いったいだれか。大きくいえば名張市であり、具体的にいえば名張まちなか再生委員会である。

翌日、名張まちなか再生委員会の事務局で尋ねたところ、「歩行者ネットワーク等社会実験」のための掲示物だったという。社会実験というのは、名張まちなかのいろいろなスポットを、地域住民がただ歩きまわっただけのことらしかった。

ちなみに、公文書公開請求のために入手した資料によれば、平成17・2005年度には、この「歩行者ネットワーク等社会実験実施事業」もふくめた「(測試)名張地区既成市街地再生事業実施計画」にかんして、名張市と株式会社都市環境研究所のあいだで契約が結ばれている。契約額は、1,232万1,000円。

意味不明。

平成17・2005年1月に発表された名張まちなか再生プランの素案には、桝田医院第二病棟のことも乱歩文学館のことも、ひとことも記されていなかった。

プランは素案どおり決定され、同年6月に名張まちなか再生委員会が発足した。プランの具体化がスタートした。いつのまにか、桝田医院第二病棟に乱歩文学館を建設することが協議されていた。

名張まちなか再生プランそのものは、市議会のチェックや市民のパブリックコメントというハードルをクリアして決定された。しかし、そこに記されていなかったことは、もとよりそうではない。

だというのに、出どころも不明なら根拠もあいまい、地域住民のコンセンサスなどどこにも存在しない乱歩文学館構想が、いつのまにか名張まちなか再生委員会によって検討されており、おととしの11月3日には、たった一日のことではあったが、桝田医院第二病棟に「乱歩文学館」という案内板が掲出されるにいたったのである。

意味不明。

それから一年半ののち、今年の6月定例会で、名張市は桝田医院第二病棟への乱歩文学館建設を断念すると表明した。

意味不明。

名張まちなか再生委員会に検討がゆだねられ、その結論がいまだ提出されてはいないというのに、どうして名張市にそんな表明ができるのか。

その答えは、名張市監査委員によって示されている。先日の監査結果通知書から引く。

   
平成17年3月には、名張地区既成市街地再生計画策定委員会が「名張まちなか再生プラン」をとりまとめている。このプランでは、従来の市主導の一方的な計画推進手法ではなく、市民と行政が共に尊重し、共に育む計画、つまり協働事業として取り組むこととした。そのリーダーシップをとる組織として発足したのが「名張まちなか再生委員会」であり、この委員会を構成する多様な人材と行政が、共に携え検討を加えてきたことから、請求人の主張する市の意向がまったく反映されていないという主張には理由がないものと解するほかない。

要するに、いわゆる協働ってやつはなあなあずぶずぶの癒着構造のうえに成り立ってんだから、多様な主体のひとつであるそこらのNPOが勝手に決めたことに市民の税金が投じられてもOK、委員会が検討していたことに行政が結論を出しても全然OK、癒着構造をなめんなよ、ということなのである。

つける薬がない。名張市の行政運営におけるこうした幼児性、あるいは自己中心性には度しがたいものがあり、ここまで徹底されるともう何をいう気にもならない。

それに、桝田医院第二病棟および乱歩文学館をめぐる協議検討がいかに無茶苦茶なものであったとしても、いまごろになって何をいってみたところで、しかたがないだろう。覆水が盆に返ることはないのである。

ただ、ひとつだけ、気になってしかたのないことがある。名張市は、この断念について、桝田家にどんな説明をしたのか。その説明によって、桝田家側の納得を得ることができたのか。

桝田医院第二病棟は、江戸川乱歩に関連して活用することを条件として、名張市が桝田家から土地建物を寄贈されたものである。

朝日新聞の平成16・2004年12月8日付ウェブニュースから引用。

   
乱歩生誕碑ある家 活用して 名張

名張市に生まれ、日本の推理小説の生みの親として知られる江戸川乱歩(1894〜1965)の生誕碑がある同市本町で、空き家となっている医院の施設の所有者が、乱歩に関連した活用を願って、同碑が建っている土地と建物を市に寄贈した。市は今後、活用方法を検討する。

寄贈したのは、同市新町の桝田医院(田中成典院長)の初代院長で乱歩と交流のあった故・桝田敏明さんの妻の寿子(ひさこ)さん(81)=大阪府高槻市在住。すでに、先月24日に所有権の移転の手続きを終えたという。

(略)

寄贈については、今年9月、寿子さんの「乱歩にちなんだことで市に活用してほしい」との思いを受けた長女の寿美さんが、名張市立図書館嘱託職員の中相作さんに電話で相談。中さんは亀井利克市長に報告するとともに「乱歩の生家を復元したらおもしろいのではないか」などと助言したという。

亀井市長は「今後のまちづくりの大きなインパクトになる。活用方法については、住民と協議して今年中にも決め、正式に発表したい」と話している。

同日付毎日新聞ウェブニュースから。

   
「江戸川乱歩のために使って」 名張の桝田寿子さん、病棟と土地を市に寄贈 /伊賀

◇記念館として、整備検討

名張市生誕の推理作家、江戸川乱歩の生誕碑がある名張市本町の桝田医院第2病棟所有者、桝田寿子さん(81)が「乱歩に関することで活用してほしい」と病棟と土地を名張市に寄贈していたことが7日、分かった。病棟は空き部屋となっており、名張市は「江戸川乱歩記念館」として整備しようと検討を始めている。【熊谷豪】

(略)

病棟(木造平屋建て、敷地面積約380平方メートル)は築後約50年が経過し、83年から使用していない。桝田さんは「乱歩にかかわることで市に活用してほしい」と、乱歩に詳しい名張市立図書館嘱託職員の中相作さん(51)を通じて寄贈を申し出て、11月末に所有を移転したという。

中さんは「乱歩の生資料の収集は難しいが、生家を復元したら面白い。生誕碑が出来て50周年となる来年11月3日のオープンを目指してほしい」と話している。

なにしろ、こういった経緯である。桝田敏明先生のご遺族からお話をいただき、まことにありがたいことであると思ってそのまま名張市長にとりついだ身としては、名張市が桝田先生のご遺族にどんな説明をしたのか、それが気になってしかたがない。

しかし実際には、名張市から桝田家には電話一本の連絡もなされていないのではないか。普通ならありえないことだが、名張市ならば十分あるだろう。というか、かぎりなく100%に近い確率で、名張市はどのような説明もおこなっていないのではないか、と推測される。

大丈夫か名張市。
江戸川乱歩と名張とは、まったくといっていいほど無縁である。

乱歩は明治27・1894年10月に生まれ、翌年の6月には亀山に引っ越した。乱歩に名張の記憶はなく、父親が勤務のせいで短期間、たまたま住んだ土地というにすぎなかったから、引っ越したあとは訪れる機会もなかった。

名張市立図書館が発行した江戸川乱歩リファレンスブック3『江戸川乱歩著書目録』に、乱歩と名張の関係について、いささかを記しておいた。「ふるさと発見五十年」と題した解題の、前半部分にあたる。

以下に引いておく。転載にあたって、段落間に一行あきを設け、二字さげだった段落はインデントで処理する。

   
昭和二十七年──昭和十年 乱歩と名張について

江戸川乱歩は明治二十七年十月二十一日、三重県名張郡名張町新町に生まれた。名張郡は古代から見える郡名だが、明治十一年に行政区画名として採用され、乱歩の父平井繁男が勤務した名張郡役所は伊賀郡役所と合同で名張町に置かれていた。当時は近代的地方自治制度の揺籃期で、明治二十九年には名張、伊賀両郡が合併して名賀郡が発足、地名としての名張郡は消滅することになる。

生誕から五十八年後の昭和二十七年、名張町を訪れた乱歩が初めて生家跡に立った経緯は随筆「ふるさと発見記」に詳しいが、それを補足する資料として地方紙の記事を転載しておこう。同年九月二十九日付「伊和新聞」に掲載されたもので、見出しは「生まれた家を探しあて/探偵作家の感無量/名張に来た江戸川乱歩氏」。選挙応援のため九月二十六日に名張入りした乱歩が、翌二十七日に生家跡へ案内されたことを伝える内容である。
みずから“猟奇耽異の徒”と称し、特異な作風で過去三十年、探偵小説界を独歩してきた文壇の奇才江戸川乱歩氏にとって、名張の町はなつかしい生まれ故郷であるが、しかし名張の何処で生まれたのか、それは五十八才になる今日まで、求めようとして求めえないマボロシのように彼の脳裡につきまとった。昭和十二年ごろ、旅行の途次名張駅に下車して、一人の頼るものもなく生家を求めて孤影ショウ然と街をさまよったこともある。しかしマボロシは遂に彼の視界に入らなかった。しかしこの度川崎秀二氏の応援にきたことが、はからずも彼に生家をつきとめさせる機縁となった。

二十六日夜、春日神社で川崎氏の応援をすませた江戸川乱歩氏は旅館清風亭のランカンによりかかり、名張川の瀬音に耳をすましながら、何かもの思いげにぼんやり街の夜空を見あげていた。そこへ訪れてきたのは本町岡村書店の主人繁次郎氏だ。

「先生の生まれた家を私が知っているのです」

「ほほう」

乱歩氏の顔に、一瞬、ただごとでない色がはしった。それから二人の間にいろいろの話がはこんで

「では、明日ご案内いたします」

ということで岡村氏は帰っていった。

乱歩氏は本名平井太郎、平井家は代々津藤堂藩の千石取の家老職、明治になって父故繁男氏は関西大学を出て就職第一歩を名賀郡役所の書記に奉じた。当時郡役所は鍛冶町にあった。今は廃業しているが、小林医院はその建物である。まもなく、十八才の若い妻は一子をあげた。明治二十七年十月である。それが太郎と命名され、いまの江戸川乱歩氏だ。父は名張在職一年で亀山郡役所へ移り、まもなく名古屋へ転勤していった。

その生まれた家というのが新町の横山家なのだ。横山家は代々名張藤堂藩の典医の家柄で、明治二、三十年頃は文圭翁の代だった。長男故昭四郎氏は県議にも出た有名な政治家である。しかしこの由緒ある家は、当主省三氏が開拓団の農夫として蔵持の山へひっこもった二、三年前から桝田医院の手にうつり、名張きっての新進青年医師桝田敏明氏がここで開業している。

この桝田医院の居間に、二十七日の朝岡村氏の案内で乱歩氏は足を運んだ。

「当時と今と建物がちがっていますが、ちょうどここに長屋がありましてね、先生一家はその長屋に住んでいたんですよ」

当時の事情に通じている岡村氏と大五自転車店の富森高太郎氏がかわるがわる説明する。

「先生一家が入られるすぐ前まで、その借家に安本亀八という人形師が住んでおりましてね」

「その話なら母から聞いています。今でも東京で有名な生人形師ですよ、しかし明治二十何年といえば当主の先々代ぐらいでしょうね」

いつ果てるともなく、いろいろの話がはずむ。

「横山文圭翁の長女で、先生が生まれた頃まだこの家にいたおばあさんが近くにいるんですがね」

富森氏の言葉に、「ぜひ会わせて下さい」と乱歩氏の胸はなつかしさにはちきれそうな様子だ。

それは新町の辻酒店だ。当主安茂氏の母親昔(セキ)さんは、乱歩氏が生まれたちょうどその前後横山家からこの辻家に輿入れしてきた。昔さんはいま軽い中風の身を裏座敷に養っているが、その枕もとへ乱歩氏がきちんと座る。

「これが横山にいた平井さんの息子さんだ」

という安茂氏の説明に、おばあさんはしげしげと乱歩氏の顔を眺めて、

「まあ、あの子がこんな大きい子におなりなさって」

近く還暦を迎えようとする天下の乱歩氏も、まるで子供扱いだ。

「あんたのお父うさんは小さい人だったが、大きい赤ん坊を生んだというので評判でしたよ、やっぱり大きくなってござるな」

ことし八十六才という昔さんの記憶はしごく確かだ。当時を回想して思い出話はこんこんとしてつきない。乱歩氏もいつまでも聞いていたい表情である。しかし上野市での演説の時間は迫っていた。昔さんのもとを辞して、しばらく名張川の河畔にたたずんだ。ようやく探しあてた生まれ故郷の空、山、水に見入る乱歩氏のまなざしには感懐一しお切々なるものがみうけられた。
文中、「父は名張在職一年で亀山郡役所へ移り」とあるのは、名張在職二年で鈴鹿郡役所へ、とするのが正しい。生人形師の初代安本亀八(一八二五─一九〇〇)が乱歩と同じ長屋に住んだのは奇縁というほかない事実だが、初代亀八の名張在住期間は三、四年間、慶応のころには名張を去っていたと推測されている。乱歩の誕生は、亀八が居住した時期から三十年ほどあとの話である。

「昭和十二年ごろ、旅行の途次名張駅に下車して」という箇所の典拠は不明だが、昭和二十八年一月に発表された「ふるさと発見記」には次のような記述が見られる。
十数年以前大阪名古屋間の電車がひけて、名張町に駅ができたと聞いたときに、一度生れた土地が見たくて、旅行の途次、名張に下車して、町を歩いて見たこともあるが、知りあいもないまま、生れた場所を確かめることもなくして終った。
昭和二十七年の「十数年以前」といえばたしかに昭和十二年前後だから、名張入りした乱歩が十数年前にも名張を訪れたことがあると打ち明け、それが新聞記事に反映されたと考えるべきかもしれない。ちなみに、名張駅の開設は昭和五年のことである。

人知れず果たされたこの初めての帰郷に関しては、昭和三十年十一月、江戸川乱歩生誕地碑の除幕式に招かれて名張を再訪したときにも、乱歩は地方紙のインタビューでこんなふうに語っている。十一月七日付「伊和新聞」の、「生家もとめて/来たこともある/本社来訪の乱歩氏語る」と題された記事である。
誕生碑除幕式に招かれて来名した江戸川乱歩氏は四日午后四時本社を来訪、岡山社長らと約二十分間歓談したが、”ふるさと発見”について次のように語った。

「これは恥しいことだからまだ誰にも話したことがありませんが、昭和十年頃だったでしょうか、電車で名張を通ったついでのあった時、途中下車して名張の町を歩き廻りましたよ。自分の生まれた家はどこだったろうと探しながらね、しかし友人も親戚もないし、といって役場へ行って尋ねる気にはなれないし、そのまま引返しましたよ。さあ、どの辺を歩いたかよく覚えていませんが、なんでも細い川に沿うて二時間ぐらい歩きましたよ。それから二十年たって今日の生誕地記念碑となったのです。何んともいえぬ喜びです」
昭和十年の乱歩といえば、のちに「人間がけだものに化ける怪異談を書こうとしたのであろう」と他人ごとめいて評することになる「人間豹」の連載を五月に終え、蓄膿症の手術を受けたせいもあって創作活動は低調なままに終始した。だがその一方、「探偵小説四十年」にはこんな回想も見受けられる。
私は手術などには至って弱い方なので、入院も長引いたし、退院してからも、その夏は殆んど寝たままだったし、結局十年度は一つの小説も書かないで過してしまった。しかし小説こそ書かなかったけれど、十年の夏から翌十一年にかけて、あるきっかけから、私の心中に本格探偵小説への情熱(といっても、書く方のでなく、読む方の情熱なのだが)が再燃して、英米の多くの作品を読んだり、批評めいたものを書いたり、その他創作以外のいろいろな仕事をするようなことにもなったのである。
『わが夢と真実』に「蓄膿症手術」と題して抄録されたこの文章の末尾には、
〔註、当時の評論は「鬼の言葉」という本に集めてある。そのほか、「日本探偵小説傑作集」の編纂、それにのせた百枚を越す史的探偵小説論、柳香書院の世界探偵小説傑作叢書の監修、春秋社の長篇懸賞募集選者など〕
と「創作以外のいろいろな仕事」が列挙され、「あるきっかけ」によってもたらされた「本格探偵小説への情熱」の再燃が相当に印象深いものであったことを窺わせる。

別の角度から見れば、「幻影の城主」を手始めとして少年期を回想する随筆が書き始められたのが、やはり昭和十年のことであった。翌十一年の「レンズ嗜好症」「活字と僕と」「ビイ玉」や、十一年から十二年にかけて連載された「彼」などをあわせて俯瞰すれば、乱歩が昭和十年ごろを契機として少年という主題に向き合っていった過程を見出すことが可能だろう。

あるいは、昭和九年の「槐多『二少年図』」から十年の「ホイットマンの話」、十一年の「もくず塚」「サイモンズ、カーペンター、ジード」に至る一連の随筆や評論からは、昭和八年に中絶された「J・A・シモンズのひそかなる情熱」に示されていた文字どおりひそかなる情熱が静かに持続され、少年という主題に濃い彩りを添えたであろうことも推測できる。

事実、「同性に対して、注ぎ尽された」という少年時代の恋をノンシャランに語った大正十五年の「乱歩打明け話」とは趣を変えて、これらの作品には少年期や少年愛を追体験するように対象化しようとする真摯な意志が認められる。「彼」の中絶に関して述べられた「恥かしくて書けない」という言葉は、そうした省察の息苦しさを端的に物語るものであるだろう。そして随筆による自己の対象化からいったん遠ざかった乱歩は、昭和十六年になって新聞や雑誌の記事を『貼雑年譜』に体系化する。それは他者をかりそめの視点として自身の像を蒐集する、形を変えた自己確認の試みであったようにも映るのである。

いずれにせよ昭和十年は、乱歩にとってきわめて自覚的かつ重要な転機であったとおぼしい。乱歩は翌十一年一月、「緑衣の鬼」と「怪人二十面相」の連載を開始するが、前者は本格探偵小説への情熱が、後者は少年という主題がそれぞれに火種となった作品であることはまず疑えないだろうし、情熱の自覚や主題の発見には深い省察が不可欠であったと仮定してみれば、昭和十年前後の乱歩の胸奥に自己確認への強い意志が存在していたこともまた疑い得ない。

だとすれば昭和十年ごろのある日、旅行中の乱歩を名張駅に降り立たせ、田舎町をあてもなく歩き廻らせたものもまた、自己確認へのやみがたい希求であったかと推量される。未知の生まれ故郷を訪れ、得るものも知るところもなく立ち去ったその経験は、のちの「ふるさと発見」に際して、だからこそ昭和十年という年に刻まれた内省の記憶と重なって想起されるに至ったのではなかったか。

江戸川乱歩がふるさとを発見した昭和二十七年から数えて、平成十四年でちょうど五十年が経過することになる。名張市と名張市教育委員会はこれにちなんで江戸川乱歩ふるさと発見五十年記念事業「乱歩再臨」を開催し、半世紀にわたる名張の歴史を振り返る機会とも位置づけた。しかし、乱歩生誕地碑建立の前年、昭和二十九年の町村合併によって誕生した名張市では、平成十四年現在新たな市町村合併が協議されつつあり、その結論次第では名張市という地名もかつての名張郡同様消滅してしまうことが避けられない。単に生誕地というだけで乱歩とはほぼ無縁だった名張という土地に関して、乱歩とのゆかりに少しく贅言を連ねた所以である。

『江戸川乱歩著書目録』の発行日は平成15・2003年3月31日。

「ふるさと発見五十年」の最後のほうで、乱歩の遺産をめぐる当時の動きにふれておいた。ついでに引いておく。

   
ここで、乱歩の遺産をめぐる最近の動きを記録しておこう。平成六年の生誕百年をひとつのきっかけとして、豊島区西池袋にある乱歩の旧宅が注目を集め、土蔵に遺された蔵書の恒久的な保存と管理が強く望まれるようになった。平成十一年、豊島区は旧宅を乱歩記念館として整備する構想を発表したが、財政難を理由に断念。構想は立教大学に継がれる恰好となり、旧宅の土地や家屋、蔵書などが平成十四年三月末をもって大学の管理下に入った。乱歩の遺産をより公的な財産として新世紀に引き継ぐ道が、ここにようやく開かれたのである。

名張市が乱歩文学館なるものを整備するとしても、乱歩の遺産の散逸を防ぐ、という目的を掲げることは、この時点でできなくなった。もちろん、名張市はそんなことなど、露ほども考えていなかったのであるが。
9月21日、日本経済新聞の文化欄に、金城学院大学准教授の小松史生子さんが「乱歩の幻想育てた名古屋」という随筆を発表した。

なかに、名張のことが出てくる。

   
近年、乱歩の学問的な研究は進んできたが、都市との関連では東京、大阪、生誕地の名張の三都市だけに光が当たっていた。

こんなふうに、名張の名前を出していただけたのは、ありがたいことである。面映ゆくもあるけれど、嬉しいし、誇らしい。

実際には、江戸川乱歩との関連で、名張に「光が当たっていた」ということなど、ほとんどないのだが、名張市立図書館が乱歩のリファレンスブックを刊行したりしてきたから、小松さん、名張市に対して敬意を表してくださったのだろう。

門出に、思いがけず、花を贈られたような気分になった。

なんの門出かというと、名張市という自治体との、江戸川乱歩という作家をめぐる、力と力、知恵と知恵、火花を散らす、一騎打ちの大闘争──などということにはなりようがないが、まあ、最終決戦のようなものである。

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